重文。
無学祖元の法を嗣ぎ那須の雲巌寺を開創した高峰顕日が、紅葉の名所として知られる高雄山の神護寺を訪れ、その美しい自然に感じてつくっ詩を、神護寺の子院の普賢院主に書き贈ったものである。
「松扉」は松林の中の意、「誅茅」とは茅を刈り取る意だが、その跡に茅で小屋を建てる意をも含めている。
「翠徴」とは山の中腹。
比較的に若い頃の筆のように推定される。
この詩に詠ぜられた景観は、そのまま彼の開いた那須の雲巌寺のそれと相通じており、彼の世俗厭離・山林幽棲の思いの終生変わることのなかったことが察せられる。
高峰顕日は後嵯峨天皇の皇子として生まれ、16歳で東福寺の円爾について出家得度し、20歳のとき円爾の指示により鎌倉に赴き建長寺で兀庵普寧に参じた。
山林に幽棲することを好み那須に隠れたが、人々の要請に応じて雲巌寺を開き来参する者を接化、親交のあった一翁院豪の勧めで、建長寺に住していた無学祖元にさらに参じ、ついにその法を嗣いだ。
正安二年(1300)鎌倉浄妙寺の住持となり、次いで万寿寺・建長寺に住したが、退任するといつも雲巌寺に帰住、筑前崇福寺の南浦紹明と並び天下の二大甘露門と称された。
正和五年(1316)76歳で示寂、仏国禅師・応供広済国師と勅諡された。
会下から夢窓疎石・天岸慧広らが輩出、その法系はすこぶる栄えた。
皇族出身と和歌を能くして冷泉為相と親交があり、語録のほか『仏国禅師和歌集』などがある。
【寸法】本紙縦27.0 横48.4
【所蔵】五島美術館