夢窓疎石 閑居の偈 むそうそせき かんきょのげ

夢窓疎石 閑居の偈
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鶴田 純久の章 お話

夢窓疎石が建武元年(1334)60歳のとき、往年の自作の偈を書いて弟子の玉泉周皓に与えたもの。
夢窓は、北条貞時の妻覚海夫人が彼を那須かずさぎゅうこう雲巌寺に住させようとするのをさけて土佐の吸江庵に隠れていたが、元応元年(1319)夫人の強請により鎌倉に来、雲巌寺住持だけは固辞した。
その夏、横須賀に泊船庵なる小庵を営んで世俗との交渉を絶ち、元亨三年(1323) 上総の退耕庵に移るまでここに住した。
藻魚の下絵のある舶来の蠟箋に、おだやかなうちに強さをもった気品ある書風で書いたもので、夢窓の禅風や人柄を知るのに好個の資料である。
また建武元年の筆とはっきりしているので、年代判定のうえの一基準となる。
夢窓疎石は伊勢に生まれ甲斐で成人し、はじめ天台・真言の両宗を学んだが、20歳のときから禅宗に帰し、無隠円範・一山一寧らに参じ、ついに高峰顕日に嗣法した。
彼は性、山林閑居を好む傾向が強かったが、北条高時・後醍醐天皇・足利尊氏・直義、および北朝の光厳・光明両院らの帰依を受け、南禅・浄智・円覚の諸寺に住し、甲斐慧林寺・美濃永保寺・京都天龍寺を創建してその開山となり、観応二年(1351)77歳で示寂。
その門派は室町幕府を檀越とし、天龍・相国の二寺を拠点としてすこぶる栄えたが、その法脈は早く絶え、伽藍仏法・法会仏法に堕してしまった。
周皓はのちに入元して月江正印から玉泉という道号をもらい、臨川寺に住した。
【寸法】全体 縦110.0 横68.0 本紙縦24.5 横66.0

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