滅翁文礼 春遊の詩 めっとうもらい しゅんゆうのうた

滅翁文礼 春遊の詩
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鶴田 純久の章 お話

重文。
密庵成傑の法孫で易学にも精通し、学者・文化人とも親交のあった滅翁文礼が、その春遊の詩、七言八句を書いたもので、珍貴な一軸である。
詩の内容は直接禅とは関係なく純然たる文雅の作品であるが、真の禅者というものには、「始めは芳草に随って去り、又落花を逐うて回る」という遊山の境涯というものがあり、この詩はまさに大禅者滅翁の遊山の境涯のおのずからなる表白である。
その意味では禅文学の最高の作品といってよいであろう。
書風はまことに個性的で枯れきったものであるが、その底に千鍛百錬した滅翁の嶮な気骨が息づいていて、あたかもその人に接する想いがする。
滅翁文礼は杭州臨安の出で、16歳で出家得度し、源崇岳に参じてその法を嗣いだ。
その法系は、密庵咸傑―松源崇岳滅翁文礼―横川如琪古林清茂となる。
彼は諸寺に歴任したのち、五山第四の南山浄慈報恩光孝禅寺の第三十五世住持となり、次いで第三の太白山天童景徳禅寺の第三十七世住持となり、南宋末期嘉定年間(1208~24)を中心に活躍し、84歳で示寂した。
天目山の麓に生まれたので天目樵者と自称し、易学に造詣深かったが、かつての詩でわかるように詩文をも深く嗜んでいた。
滅翁の墨蹟としては、このほかに「達磨図賛」(妙心寺蔵)と嘉熙四年(1240)筆の偈の一軸(小西家蔵)とが知られている。
【伝来】鴻池家藻井家
【寸法】全体―縦112.5 横68.5 本紙―縦18.2 横66.2

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