

大坂肩衝(おおさか かたつき)
漢作(中国製) 子爵 松平頼和 氏 所蔵
【名称】
この茶入はもともと古田織部が所持していたため、彼がこれを手に入れた地名(大坂)をとって名付けたのか、あるいはそれ以前からこの名前があったのか、今となってはその詳細を知ることはできません。
【寸法】
高さ:約8.9cm(2寸9分5厘)
胴径:約6.9cm(2寸3分)
口径:約4.2cm(1寸4分)
底径:約3.9cm(1寸3分)
肩幅:約1.2cm または 約1.3cm(4分 または 4分5厘)
重量:約138g(36匁8分)
【附属物】
・蓋:3枚
本蓋:窠(す:裏面のくぼみ)あり
替蓋:小堀遠州好み、窠なし
同(替蓋):片桐石州好み、窠あり
・御物袋(茶入を入れる袋):白の羽二重、緒の結び目は白
・仕覆(袋):3つ
1. 卍字模様の唐織(裏地は海気、緒は紫)
2. 雲鶴模様の緞子(裏地は萌黄色の海気、緒は紫)
3. 唐花唐草模様の緞子(裏地は傷んで擦り切れている、緒は紫)
・袋箱:桐製、大小2個
・挽家(茶入を保護する木製容器):黒塗
・箱:桐製の白木箱。書付と張紙がある。
「大坂肩衝 御茶入」と記載。
【雑記】
大坂肩衝。もとは古田織部の所持品。承応3年(1654年)12月の遺産分配の品目8種のうち、この品は大殿様(徳川頼宣)の官位昇進の前に、故大納言様(徳川頼宣)から進上されたものである。
(『西条松平家文書』より)
徳川頼宣公が、次男の左京大夫頼純公へ、天下の名物である「大坂肩衝」や一山一寧(いっさんいちねい)の墨跡の掛物、その他武具としては竹中半兵衛の一の谷の兜をはじめとして、多くの名物をお譲りになりました。
これについて家臣の渡辺若狭守直綱が申し上げました。「東照大権現(徳川家康)様から下賜された天下の名物は、跡継ぎである嫡男の家(紀州徳川本家)にお譲りになるべきだと世間でも言われており、もっともな批判だと思います。庶子であられる頼純様にこのような重宝をお譲りになっても、武具はともかく、茶の湯の道具を披露するような身分の高いお客もいらっしゃらないでしょう」と。
すると頼宣公は笑って答えられました。「左京(頼純)は石高が少ない身分だから、将来本家の中納言殿へ資金援助を頼み込むこともあるだろう。その時、ただお願いしてもなかなか聞き入れてもらえないかもしれない。この名物の道具を質に入れてお金を借りれば、本家への義理も立ち、左京の足しにもなるだろうと思って、分不相応な道具であっても譲るのだ」と仰って笑われたということです。これなども、ごもっともな素晴らしいエピソードです。
(『南龍言行録』より)
【伝来】
もとは古田織部の所持品であり、紀州藩の祖である徳川頼宣に伝わり、承応3年(1654年)12月に頼宣からその次男である頼純に譲られました。頼純は寛文10年(1670年)12月に伊予国西条藩(現在の愛媛県西条市)三万石の藩主となり、西条藩の祖となりました。『西条家文書』および『南龍言行録』には、「大坂肩衝」と同時に、一山一寧の墨跡、竹中半兵衛が着用した一の谷の兜を下賜されたと記されています。
【実見記(実際に拝見した記録)】
大正8年(1919年)10月23日、東京市麻布区飯倉片町の松平頼和子爵邸において実物を拝見しました。
口縁の折り返しはやや深く、甑(こしき:首の部分)の周りには二段の筋が巡らされています。全体的に黒飴色の釉薬と紫色の釉薬が入り混じっており、肩先から黒飴色の大きな雪崩(なだれ:釉薬が流れ落ちる景色)が三筋連なっているものと、別に一筋なだれているものがあります。釉薬の溜まりはやや厚く、その中に少し青瑠璃色を含んでいます。胴の中央には沈んだ筋が一本巡っており、この辺り一帯に柿色の斑点が点々と散在しています。
手に取ると軽く、口縁から肩にかけて三角形のひっつき(窯の中で他の物が付着した跡)があります。裾から下は鉄気色(赤黒い色)の土の地肌を見せ、ヘラ目の作行きは極めて古風で趣があります。底の糸切りはやや荒く不規則で、起り(糸切りの始まり)の部分にギザギザとしたヘラ使いの跡があります。また、置形(垂れた釉薬の景色)のちょうど反対側の肩のあたりに、鉄の手形のような長さ1寸(約3cm)ほどの柿色の景色があります。
内部は口縁に釉薬が掛かっており、それより下は轆轤(ろくろ)の目が巡っています。全体的にヘラ目が多用され、裾の辺りは高く土肌を見せており、所々に景色(見どころ)が富んでいる見事な茶入です。
【原文】
大坂肩衝 漢作 子爵 松平頼和氏 蔵
名 稱
此茶入元古田織部所持なれば彼が之を獲たる地名を以て稱せしか、或は其以前より此稱ありしか、今其詳細を知る能はず。
寸 法
高 貳寸九分五厘
胴徑 貳寸参分
口徑 壹寸四分
底徑 壹寸参分
肩幅 四分又四分五厘
重量 参拾六匁八分
附屬物
一蓋 三枚
本蓋 窠あり
替蓋 遠州好 窠なし
同 石州好 窠あり
一御物袋 白羽二重緒つがり白
一袋 三つ
卍字模様唐織 裏海氣 緒つがり紫
雲鶴純子 裏萌黄海氣 緒つがり紫
唐花唐草純子 裏やつれ 緒つがり紫
一袋箱 桐 大小二個
一挽家 黒塗
一箱 桐 書付 張紙
大坂肩衝
御茶入
雜 記
大坂肩衝 元古田織部所持。承應三年十二月御分物八種の内右大殿様(徳川頼宣)御官位前從故大納言様(徳川頼宣)被進候。
(西條松平家文書)
頼宣君、御次男左京大夫頼純君へ、天下の名物大坂肩衝、寧一山の一行ものゝ御掛物、其の外武具には竹中が一ノ谷の甲を始めて、名物ども多く御譲りなされ候。渡邊若狭守直綱申上げ候は、權現様より遣せられ候天下の名物どもは、御嫡家に御譲なさるべき事と、世上にても申し、尤の批判と存じ候、御庶子に此御重寶、御持武具は格別、茶の湯道具は御出しなさるべき御客衆も無御座候と申上ぐる。頼宣君御笑ひなされ、左京小身なれば、以來中納言殿へ金銀合力無心申すにて可有之候、此時唯所望もなりがたし、此の名物の道具を質物に入れ金銀をかり候はば、總領の家へもぎり、左京手まへのたしになるべく、ともひ、不相應の道具なれどもゆづり候と仰せられ、御わらひなされ候よし、是等も御尤なる御事なり。
(南龍言行録)
傳來
元古田織部所持にして、紀伊藩祖徳川頼宣に傳はり、承應三年十二月頼宣より其次男頼純に讓與せり。頼純は寛文十年十二月伊豫國西條三萬石に封せられ、西條藩祖となる。西條家文書及び南龍言行録に、大坂肩衝と同時に、寧一山の墨蹟、竹中半兵衛着用一谷の兜を賜ふとあり。
實見記
大正八年十月二十三日東京市麻布區飯倉片町松平頼和子邸に於て實見す。
口縁拈り返し稍深く、甑廻りに二段筋を繞らし、總體黒飴釉紫釉と相交錯し、肩先より黒飴大ナダレ三條連なりたると、別に一筋なだれたるとあり、釉溜稍厚くして、其中に少しく青瑠璃色を含めり、胴中に沈筋一線繞り、此邊一帯柿色の點々散在し、手取軽く、口縁より肩にかけて三角形のヒツツキあり、裾以下鐵氣色の土を見せ、箆目作行極めて古雅なり、底絲切稍荒く、不規則にして起點にギザ/\と箆作あり、又置形と正反面に當りて肩より鐡の手形に長一寸許なる柿色の景色あり、内部口縁釉掛り、以下轆轤繞る。總體箆目多く裾の邊高く土を見て處々景色に富みたる茶入なり。


