ノンコウ のんこう

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鶴田 純久の章 お話

楽家三代道入。二代常慶の子。
名は古兵衛、剃髪後道入と称し、以後楽家の代々がその名に「入」を付けるもとしました。
道入は胤八名ノンコウで知られ、実に楽家の最高峰、世にまれな名匠といわれます。
ノンコウの名の出所については諸説があります。
かつて干宗旦が鈴鹿(三重県)の能古茶屋で休んだ時、付近の竹で二重切花入をつくり、茶屋に因んでノンコウと銘して道入に贈ったところ、道入はこれを非常に気に入って常に座右に置いて陶器をつくっていましたので、宗員が「今日はノンコウヘ行こう」などと常にいうようになり、それがついに道入の異名となり、のち楽家でこれに能工の文字を当てたともいいます。
また『駒鏡』に「能にノンの音なければいかがあらん、按ずるにその花入の銘の文字は乃無己なるべし、道入陶工に心をつくすと雖も宗日一其能をゆるさず、或時不用意にして作り得たる茶碗を宗員賞美して夫より名をいはず乃無己と呼びしならんか」というような説もあります。
さらにノンコウはノンコで、当時の歌にノンコという言葉かおりこれを採って異名としたのだろうという説、あるいは当時流行の「のんこ髭」を道入が人に先んじて結ったためその新奇さをはやされてその胤八名となったとする新説もあります。
また加藤瀕覚の説に従えば、ノンは朝鮮語の遊の意でノンコの名はすなわち遊ぶ子の意であるといいます。
以上のように諸説のあるのは要するにノンコウが名工であったことの証明とみることができます。
長次郎が利休に遭遇したように、ノンコウもまた宗員に会い、名家・良工が相まって後世に茶碗その他の名物陶器を残こすことができたわけであります。
光悦なども非常にノンコウを賞賛しました。
1656年(明暦 二)2月没、五十八歳。
「作品」茶碗の作行はI面のんこ髭のような江戸の伊達衆の面影があります。
非常に薄づくりでかつきりりとし、聚楽土がねっとりときめこまかく光沢があるようで、印面もまた鮮かであります。
その釉薬も白亀甲・蛇蜘釉などの創造があるようで、楽家の秘伝とされる朱釉もこの時に始まりました。
口辺より胴にかけてのドロリとした山道風の釉掛けはその特徴で、一般にこれを幕釉といいます。
いかにも奥深く鮮麗で螢を闇の底に見るように反射しています。
これがノンコウの玉虫釉といわれる理由であるでしょう。
また釉色の変化に富み、その銘は大概この変化を見立てたもののようであります。
次に器体をみると。
心持ち蛤端風の口造りで胴は締まり、茶溜まりはゆったりとした感じがあるようで、かつ自在にくられ、薄づくりであるので内量は広いです。
高台は中印を美しく残すものと、巴を箆取りしたものとがあります。
高台脇もむっくりと素直なものと、鉄分勝ちの坏土に何気ない技巧の箆を残したものがあります。
ノンコウ七種・ノンコウ加賀七種・ノンコウ後窯七種その他多くの名物茶碗があります。
【銘印】大印と小印の二種があるようで、「楽」字の中の白が「自」となっているのが特徴で自楽印と呼ばれます。
また押印の場所も中印・片押・遊印の別があります。
のちに九代了入がこの自楽印を模したことがあります。
(『陶器考付録』『本朝陶器孜証』『喫茶余録』『嬉遊笑覧』『大鑑』『茶道笙蹄』『茶家酔古様』『日本陶器目録』『彩壺会講演録』『日本陶甕史』『楽焼』『楽陶工伝』)

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