Picture of 鶴田 純久の章 お話
鶴田 純久の章 お話

室町幕府の同朋衆。『君台観左右帳記』の著者。
1397年(応永四)生まれ。姓は中尾氏、名は真能。鴎斎または春鴎斎と号しました。
もと朝倉氏の臣。
六代将軍義教から八代義政に歴仕し唐物奉行となりました。
画事・表具・立花・香道に巧みで、また連歌に長じ当時連歌乍賢の一人として『新撰菟玖波集』にも四十一句が入集されています。
また最も唐物の鑑識に長じ、将軍家歴代の重宝を分類・品等して外題を書き、その管理の任に当たりました。
茶の湯についてはかねて将軍家公式の書院台子の法に詳しかったですが、もと南都称名寺の僧であった珠光を義政に推挙して、ここに公式書院の茶と大衆的な禅味の茶を合わせ、珠光をして新しい茶道の源流を形成させる機縁をつくりました。
『僊林』によれば、珠光は能阿弥の花の弟子で、初め末座のち上座となったということがみえ、また『草人木』には両者が茶法を合議したことを記しています。
画家としては七十二歳の時に描いた「楊柳観音図」が残っています。
1471年(文明三)8月5日没、七十五歳。
『大乗院寺社雑事記』には特に「没公方奉公能阿弥、長谷寺において去月入滅す。
天下の名人なり」と書き留めています。
学叟と号し、1485、文明一七年没、五十五歳 その子真芸、孫真相と公職を継ぎ、世にこれを能芸相三阿弥と称します。

前に戻る
Facebook
Twitter
Email