土佐国土佐郡鴨田村能茶山(高知市鴨部能茶山)の磁器。
土佐では以前からの尾戸焼は陶器のみで、一般に国内で用いる磁器は依然として他の地方の移入を仰いでいました。
藩はこれを改めるため御町方御趣向に命じ、1820年(文政三)尾戸(高知市小津町)の窯を陶土の産地である能茶山に移しました。
しかし磁器の製法を知っている陶工がなく、御町人古屋安之丞らが命を受けて陶工を探したところ、たまたま伊予国(愛媛県)で肥前国(長崎県)の陶工樋口富蔵を見出しその11月新窯を築いました。
富蔵は近傍の村々に原石を求めたが皆役に立だなかりました。
翌年6月讃岐国(香川県)高松にいた市郎左衛門という者を製磁法にすぐれているとして指導者に招き、原料は肥後国(熊本県)天草から取り、さらに肥前の陶工文五郎ら七人を招き秘伝を受けました。
1832年(天保二)市郎左衛門と富蔵以外の陶工を解雇。
これより先1820年(文政三)尾戸焼の森田家・山崎家の本家分家合わせて五家の御用を差し止め、1823年(同六)能茶山に引き移らせました。
のち幡多郡芳奈村伊野利山(宿毛市山奈町芳奈)の原料を用いました。
しかし幕末の騒乱期に遇いそのうえ収支が引き合わなくなり、明治初年ついに廃窯となりました。
のち森田・山崎・市原・樋口の四家がこれを経営し、明治末年には森田潤・市原定直・土居栄作・西和田久三郎らが陶業を継続しました。
江戸時代の製品は主として日用雑器で、香炉・置物・茶器の類はまれで・あります。
その初期に天草石でつくられたものは伊万里焼以上と賞賛され、隷書の「能茶山製」の銘があります。
年代が降るに従’つて作風が劣り、天保(1830-44)末年以後の作品には「茶山」の角銘を付けたものが多いようです。
またまれに土佐の画家として有名な河田小竜・壬生水石・徳弘薫斎・橋本小霞らが絵付けしたものもあります。
近来この窯でつくられた雑器は一部民芸愛好家間で珍重されています。
(『本朝陶器放証』『陶山記事』『日本陶甕史』『尾戸焼』『工芸』三九)