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北野茄子

北野茄子(きたのなすび)

漢作(中国製)大名物 所蔵:公爵 徳川家達 氏

名称について
その由来は明らかではありません。津田宗及の『茶湯日記』の天文19年(1550年)5月26日の条に「松本宗不が持ってきた北野なすび」としてその姿が詳しく記されていることから、天文の頃にはすでに「北野茄子」という名称があったのでしょう。あるいは、京都の北野に住んでいた人が所持していたことからこの名がついたのかもしれませんが、今となっては確かめることはできません。

寸法
高さ:1寸8分5厘強(約5.6cm)
胴径:2寸1分5厘(約6.5cm)
口径:場所により1寸~1寸2分(約3.0~3.6cm)
底径:場所により1寸~9分5厘(約3.0~2.9cm)
甑(こしき:口の立ち上がり)の高さ:1分8厘(約0.5cm)
重量:18匁(約67.5g)

附属物
一蓋:3枚、窠(すば:蓋の形状)
利休好み、織部好み、遠州好み
右は袋箱の懸子(かけご:内箱)に入る
一袋(仕覆):3つ
紫地角龍:裏地は花色の海気、組み紐は茶色
珠光広東:裏地は紅色の海気、組み紐は薄紫、利休好み
本能寺純子:裏地は上代の海気、組み紐は薄紫、遠州好み
一蓋袋箱:桐材の白木
「北野茄子 御茶入 蓋 三 同 袋 三」とあり
一挽家(ひきや):黒塗り、金泥蒔絵の桐紋散らし、遠州好み
袋:紺地の阿蘭陀(オランダ)縞
一内箱:桐材の白木、金粉で文字あり
「御茶入 北野茄子」
一外箱:黒塗り、金粉で文字あり
「御茶入 北野茄子」
一添書付:箱は桐材の白木、墨で書付あり
「北野茄子 御茶入由緒書」
左記の4通の手紙を3つの包みにして入れる
北野茄子
(大高竪紙)
茶入由緒覚
北野茄子という茶入は、永禄年中(1558~1570年)に太閤様(豊臣秀吉)へ、堺に住む油屋常言が「油屋肩衝」という茶入を献上した際、その代わりとして、この北野茄子と銭300貫文を油屋常言に下賜されたものです。その後、当寺(妙国寺)の開基である権僧正日珖聖人の時に寄進されました。この度、諸堂の修繕維持のために、北野茄子をそなたに遣わします。以上。
寛永元年(1624年)子年8月5日
妙国寺
西宗真老 日現(印)

(半切)

一、北野茄子
緞子袋:小堀遠江守(遠州)
窠(すば)蓋:同上
桐蒔絵の挽家:同上
以上
日現
西宗真老 参

(大高半切)

一、北野茄子
広東縞袋:利休
窠(すば)蓋:古田織部
以上
日現
西宗真老 参

(美濃竪紙)

一、四方盆 柘榴絵 1枚
右は、昔から北野茄子に添えられている盆です。
子の年 12月25日 妙国寺
日現(印)
西宗真老

一添盆:唐蒔絵の柘榴
大きさ:内寸5寸1分、底の内寸5寸6分、外寸6寸4分、底の外寸5寸9分
内側は朱塗り、外側と裏は黒塗り
盆の内側の唐蒔絵は、葉は緑色、枝や幹は金色、柘榴の実は黒色
袋:白縮緬の袷(あわせ)、組み紐は白
盆の箱:桐材の白木

「北野茄子 御茶入之盆 唐蒔絵柘榴」

雑記
北野茄子 唐物 大名物 松平隠岐守所持。高さ1寸8分9厘、胴の太さ2寸1分半、口径1寸、薄い糸切りの跡がある。蓋は2枚で、古田織部好みと小堀遠江守(遠州)好み。挽家(ひきや)は二重になっており、中は黒塗りで桐紋の金泥蒔絵。袋は紺地のおらむた縞。外箱は桐の溜塗りで内側は朱塗り。袋は筋金入りの縞。袋は2つで、花色の小島漢東、柿地に波と梅花紋の純子、小堀遠江守好み。右は北野茄子茶入の由緒書の内容である。「北野茄子茶入というのは、永禄年中に太閤様(豊臣秀吉)へ、堺の海住油屋常言が油屋肩衝という茶入を献上した際、その代わりとしてこの北野なすびと銭300貫文を油屋常言へ下賜された。その後、当寺(妙国寺)の開基である権僧正日珖聖人の時に寄進された。この度、諸堂の修繕維持のために北野茄子をそなたに遣わす。以上。妙国寺日現、花押。寛永元年子年8月5日、西宗真老。」右の北野茄子に添えられた盆は、大きさが6寸4分四方、深さ(縁の幅)が7分、縁の外側は青漆、底は5寸8分四方、底は黒塗り、内側は朱塗りで唐蒔絵の柘榴がある。箱は黒塗りで書付はない。
(古今名物類聚より)

北野茄子 唐物 松平隠岐守所持。正徳4年(1714年)午年9月1日(寸法や附属物の記事は『古今名物類聚』と同じ)。
(名物記より)

北野茄子 漢作 大名物 御物(将軍家所持)。銀や金の輝き(金気)が強く非常に美しい。本糸切りの跡があり、ネズミ色の土である(袋と盆についての記事もある)。
(麟鳳亀龍より)

北野茄子 山口所持。縦1寸8分、横2寸1分強、胴回り6寸6分強、底1寸、膨らみが5分。釉薬は濃い柿飴のような部分があり、また薄い柿色の部分もある。土は紫色のような朱色(茶入の図あり)。
(万宝全書より)

北野茄子 高さ1寸8分、横2寸1分、口径1寸、底径1寸(茶入の図あり)。
(大餡茶入梅秘伝正図式より)

北野茄子 享保5年(1720年)子年12月28日、松平隠岐守が献上。高さ1寸8分5厘、胴径2寸1分7厘、口径1寸2分、底径1寸。全体的に薄作りで、柿色、黒い景色が多く鶉(うずら)の斑のようである。図のように火間(釉薬のかかっていない部分)があり、黒い釉薬が火間を取り巻いている。姿が良く整っており、茄子茶入の中で最上のものである(茶入の図は省略)。袋は3つで、紫地角龍(裏地は花色で、緒は薄紫のなごり)、珠光漢東(本能寺純子、裏地は上代海気)、御物袋は白縮緬。蓋は3枚で、利休好み、織部好み、遠州好み(蓋の図は省略)。挽家は黒塗りで、金泥蒔絵の桐紋散らし。袋は木綿広東で裏地は海気。箱は桐の白木で、甲(蓋)に金粉で「御茶入北野茄子」とある。外箱は黒塗りで金粉の文字。盆は北野茄子を載せるためのもので、溜塗の蒔絵があるのみ。盆の図は省略。添え物の由緒書が4通、大高竪紙の茶入由緒覚(本文は省略、前述の通り)、美濃竪紙の盆の書付(本文は省略)、半切袋二の書付(本文は省略)、大高半切袋二の書付(本文は省略)。
(徳川家御道具書画目録より)

茄子茶入の名物として世に知られているものの概略
北野茄子、醍醐茄子、豊後茄子、宗娯茄子、京極茄子、紹鴎茄子、みをつくし茄子、兵庫茄子。
(茶事秘録より)

北野茄子の添え掛け物
一札
一、私が代々所持している北野茄子の茶入を貴方がご所望とのことですので、この度進上いたします。この茶入は昔から名物の北野茄子に間違いありません。もし相違があれば、いつでもお返しください。茶入を受け取った代金2100両は返済いたします。
一、右の茶入の袋は2つで、1つは利休、もう1つは遠州。蓋は織部殿と遠州殿のお好みで2枚です。
一、右の茶入は秀吉公の御道具で、北野茄子と申します。私の先祖である西宗真が妙国寺から所望して所持しているもので間違いありません。古来からの伝来である柘榴の盆、ならびに妙国寺日現上人からの証文なども残らず進上いたします。以上の通りです。
延宝7年(1679年)己未年6月23日
堺 西九郎兵衛(印)
(花押)
鰯屋道甫 代
同 九郎二郎(花押)
奥平藤左衛門 殿
(備考)奥平藤左衛門は久松家の執事である。延宝時代の久松家の主人は松平隠岐守定直で、三嶋、橘山、日新堂などの別号があり、贈り名は大龍院という。
右の掛け物の箱は桐材の白木で、蓋の表の書付は次の通り。
北野茄子茶入添証文 一幅
茄子の茶入は祖父である貞守定直公へ差し上げたものである。享保5年庚子の年、定直公が亡くなられた際、遺物として公方様(将軍)へ献上し、右の茶入に添えてあった盆と共に差し上げた。
北野茄子
(伯爵 久松定謨 氏 蔵)

(備考)右の北野茶入の添え掛け物は、享保5年に幕府へ茶入を献上した際、久松家に残されたものである。
北野茄子:油屋常言が秀吉へ油屋肩衝を献上した代わりに、銭300貫と北野茄子を賜った。松平隠岐守が所持している。
(古名物記より)

松平定英(飛騨守、後に隠岐守。久松家第六代松山城主)。元禄9年に松山で生まれる。(中略)享保5年12月11日に遺領を継ぎ、28日に隠岐守に改める。この日、父(久松家第五代隠岐守定直)の遺物である備前守家の刀と、北野茄子の茶入を献上した。
(寛政重修諸家譜より)

伝来
天文19年(1550年)の頃は松本宗不が所持しており、その後九州の吉水四郎に伝わり、後に秀吉の所有となりました。たまたま堺の妙国寺の開基である日珖上人の父・油屋常言が、所持していた「油屋肩衝」を秀吉に献上した代わりに、この北野茄子と銭300貫文を秀吉から拝領しました。寛永元年(1624年)8月、妙国寺第五世の日現上人が諸堂の修繕維持のために、銀45貫400目でこれを堺の商人・西宗真に譲りました。延宝7年(1679年)に宗真の子孫である九郎兵衛が、金2100両で伊予松山の藩士・奥平藤左衛門に譲り、藤左衛門から改めて主君である松平隠岐守定直に献上されました。その子である定英が享保5年(1720年)12月28日に家督相続の御礼として、父・定直の遺物として幕府に献上し、それ以来徳川宗家の宝物となって今日に至っています。

北野茄子
茄子の茶入の名物として世に知られているものの概略
宗娯なすび、北野茄子、醍醐なすび、豊後茄子、みをつくし茄子、紹鴎なすび、京極茄子、兵庫なすび
(茶湯古事談より)

天文19年(1550年)壬子 5月26日、松本宗不が持ってきた。
北野なすび
形はすっきりとしており、裾の辺りはふっくらとしていて風情がある。少し小さめで、筋のある腰から少し下がっている。口は広く、折り返し(捻返し)も美しい。釉薬は蛇蝎(だかつ:蛇やトカゲの鱗のような模様)の風情があり、口の側にもさらに蛇蝎の釉薬がある。下掛けの釉薬も良く、釉薬の留まり具合も良い。釉薬が振る舞った(広がった)ような景色である。石間(いしま:釉薬の隙間)が裏表にあり、右の石間が正面(一方の面)となる。土の色は濃い浅黄色で、黒い部分や朱色の部分はない。土にはっきりと刷毛目がある。釉薬の風情も土の細かさも良い。袋は広東の横筋模様で、浅黄色である。裏地は茶色の北絹である。天下が子興一という者が縫ったもので、同家の柄の紋がある。この茶壺の口付きなどの全体の形が「つくもがみ」の茄子に似ていると松本宗不が言っていたが、全くその通りである。大きさは筒の太さ指一つほどで、この茶壺は小さいとのこと。
(津田宗及茶湯日記より)

北野茄子 西国にある分。吉水四郎。
(天正名物記より)

北野茄子 吉水四郎。
(大友興廃記より)

北野茄子 西国。吉水四郎。
(東山御物内別帳より)

北野なすび 堺。西宗信。
(玩貨名物記より)

北野茄子 松平隠岐守殿の家臣、奥平藤左衛門。
(銘記録より)

油屋常佐は泉州堺の人で利休の弟子である。肩衝を所持しており、世間では「油屋肩衝」と呼ばれていた。常春(常言)の代に秀吉に献上し、その代わりに北野茄子を賜った。その後、妙国寺へ寄進し、諸堂建立のために寛永年間に阿知子宗内が買い求めて世に出たという。
(利休百会解より)

妙国寺は永禄5年(1562年)に東西2丁の敷地を三好実休が寄付して建立され、永禄11年に諸堂が建築されたという。開山である仏心院日珖上人は慶長3年(1598年)戊戌8月27日に67歳で入寂した。当山の過去帳には「号 仏直行院常言日意 永禄8年丑10月朔日 77歳」「号 仏信行院常祐日徳 天正7年卯7月4日 当山の大檀那」とある。日現上人は当山の第五世で、寛永10年(1633年)4月4日に50歳で入寂した。日珖師の弟子で字は恵俊、天正12年に摂津の堺で生まれた。元和の火災の後、長年復興しておらず、寺にあった「北野茄子」という茶入を銀45貫目で売却し、本堂を再建した。当山が所持する掛け軸の中に次の文がある。
茶入由緒覚
北野茄子茶入というのは、永禄年中に太閤様へ、油屋常言が油屋肩衝という茶入を献上した際、その代わりとしてこの北野茄子と銭300貫文を油屋常言に下賜されたものである。その後、当寺の開基である権僧正日珖聖人の時に寄進された。この度、諸堂の修繕維持のために、北野茄子をそなたに遣わす。以上。
寛永元年子年8月5日 妙国寺 日現 花押
西宗真老
買い受けた北野茄子茶入の事
右の代金は銀45貫400目である。
銀は確かに支払い済みである。茶入と共に受け取ったことは明白である。後日のためにこのように記す。
寛永元年10月18日 (宗真 花押)
妙国寺様
(妙国寺文書より)

北野茄子
(備考)附属する茶入由緒覚や妙国寺の文書には、「永禄年中に油屋常言が油屋肩衝を太閤(秀吉)に献上した代わりに北野茄子を賜った」とあります。しかし、出雲の松平家の文書には「慶長の初め頃に油屋浄祐(常祐と同一人物)が油屋肩衝を太閤に献上した」とあり、時代が合いません。考えるに、『大友興廃記』に「北野茄子 吉水四郎」とあるので、北野茄子は吉水から太閤に献上されたものと思われます。太閤と九州との関係は、あの大友宗麟が所持していた「新田肩衝」を太閤に献上した天正13年(1585年)以降のことですから、この北野茄子も大体その頃に太閤の手に渡ったのでしょう。そうであれば、「永禄年中」というのは非常に疑わしいと思われます。また、『万宝全書』に「北野茄子 山口所持」とありますが、それが誰なのかははっきりしません。『古今茶人系譜』に山口宗古という名があり、『利休百会』に周防の山口宗二という名があるので、あるいはこれらの人物の誰かなのかもしれません。さらに、『利休百会解』に阿知子宗内が買い求めたとありますが、これもまた誰なのかはっきりしません。

実見記
大正7年(1918年)11月8日、東京府下千駄ヶ谷の徳川家達公爵邸にて実際に拝見しました。
昨年、公爵家より上野の美術協会に出品された際にも一度拝見しましたが、見れば見るほど見栄えのする唐物茶入です。名前の通り茄子の形をしており、紫色と黒い釉薬が入り混じって光沢が美しく、景色の変化は言葉では言い尽くせません。胴の中央から少し下がったところに火間(釉薬のかかっていない部分)があり、口の縁には少し修復の跡がありますが、玉縁(口の縁が丸い形)は滑らかで精巧な作りです。裾から下はネズミ色の土が見え、糸切りの跡は非常に細かく、底の一部は擦れて平らになっています。
これに附属している唐物蒔絵の柘榴模様の四方盆もまた珍しいもので、蒔絵は少し賑やか(派手)なようにも見えますが、時代が古いため茶入との取り合わせは悪くありません。しかし、もしこれが無地の盆であれば、茶入の光沢がさらに一段と引き立つだろうと思わずにはいられませんでした。挽家(ひきや)は黒塗りで胴が張り出した桐の金蒔絵であり、どこから見ても太閤(秀吉)ゆかりの品であると感じられました。

【原文】

北野茄子

漢作 大名物 公爵 徳川家達氏藏

名稱
其由來審かならず。津田宗及茶湯日記に「天文十九年五月廿六日松本宗不持ち來候北野なすび」として其容態を詳記したれば、天文の頃既に北野茄子の名稱ありしならん、或は京の北野に住せし人の所持せしに依りて此名ありしか、今之を審にするを得ず。

寸法
高 壹寸八分五厘強
胴徑 貳寸壹分五厘
口徑 壹寸所により壹寸貳分
底徑 壹寸所により九分五厘
甑高 壹分八厘
重量 拾八匁

附屬物
一蓋 三枚 窠
利休好 織部好 遠州好
右袋箱の懸子に入る
一袋 三ツ
紫地角龍 裏花色海氣 緒つがり茶
北野茄子

珠光廣東 裏紅海氣 緒つがり薄紫 利休好
本能寺純子 裏上代海氣 緒つがり薄紫 遠州好
一蓋袋箱 桐 白木
北野茄子
御茶入 蓋 三
同  袋 三
一挽家 黒塗 金泥蒔繪桐紋散し 遠州好
袋 紺地阿蘭陀縞
一内箱 桐 白木 金粉字形
御茶入
北野茄子
一外箱 黒塗 金粉字形
御茶入
北野茄子
一添書付 箱 桐 白木 墨書付
北野茄子
御茶入由緒書
左の四通を三包にして入る
北野茄子
(大高竪紙)
茶入由緒覺
北野茄子茶入と申者、永祿年中太閣樣ニ從堺住油屋常言油屋肩衝と申茶入被指上候時、爲其代、此北野茄子并鳥目三百貫文油屋常言ニ被下、其後當時開基權僧正日珖聖人之時被致寄進之候、此度爲諸堂相續、則北野茄子只今其方ニ遣之也、以上
寛永元年子八月五日
妙國寺
西 宗眞老   日現(印)

(半切)

一北野茄子
緞子袋 小堀遠江守
スブタ 同
桐蒔繪家 同
已上
日現
西 宗眞老參

(大高半切)

一北野茄子
廣東嶋袋 利休
スブタ 古田織部
已上
日現
西 宗眞老參

(美濃竪紙)

一四方盆 柘榴繪 一枚
右者從古北野茄子ニ副申盆也
子極月廿五日 妙國寺
日現(印)
西 宗眞老

一添盆 唐蒔繪柘榴
大さ 内のり方五寸一分 底 内のり方五寸六分
外のり方六寸四分  外のり方五寸九分
内朱塗 外裏とも黒塗
盆内の唐蒔繪は葉緑色、枝幹金色、柘榴の實は黒色
袋 白縮緬袷 緒つがり白
盆箱 桐 白木

北野茄子
御茶入之盆
唐蒔繪柘榴

雜記
北野茄子 唐物 大名物 松平隱岐守。高一寸八分九厘、胴太二寸一分半、口一寸、うす糸切。蓋二枚、古田織部好、小堀遠江守好。挽家二重中黒塗桐紋金泥蒔繪。袋紺地おらむた島。外箱桐溜塗内朱。袋筋金入嶋。袋二、花色小島漢東、柿地波梅花紋純子、小堀遠江守好。右北野茄子茶入由緒書。北野茄子茶入と申者、永祿年中太閣樣へ從左海住油屋常言油屋肩衝と申茶入被指上候時、爲其代此北野なすびに鳥目三百貫文油屋常言へ被下候、其後當寺開基權僧正日珖聖人之時、被寄進之候、此度爲諸堂相續則北野茄子唯今其方へ遣之者也、以上。妙國寺日現、花押。寛永元年子八月五日、西宗眞老。右北野茄子に副候盆、大六寸四分四方、深縁幅七分、縁外青漆、底五寸八分四方、底黒塗、内朱、唐蒔繪柘榴。箱黒塗書付なし。
(古今名物類聚)

北野茄子 唐物 松平隱岐守所持。正徳四年午九月朔日(寸法、附属物の記事古今名物類聚に同じ)。
(名物記)

北野茄子 漢 大名物 御物。銀金氣強く至てうるはしく、本糸切、鼠土(袋と盆との記事あり)。
(麟鳳龜龍)

北野茄子 山口所持。竪一寸八分横二寸一分強、廻り六寸六分強、底一寸、膨五分。藥濃柿飴のやうなるあり、又薄柿もあり、土紫のやうにシュ(茶入圖あり)。
(万寶全書)

北野茄子 高一寸八分横二寸一分、口一寸底一寸(茶入圖あり)。
(大餡茶入梅秘傳正圖式)

北野茄子 享保五年子十二月二十八日、松平隱岐守上、高一寸八分五厘、胴二寸一分七厘、口一寸二分、底一寸。惣體薄作、柿色、黒景繁く鶉斑の如し、圖の如く火間ありて、黒釉にて火間を取卷、姿良く整ひ茄子茶入の最上たり(茶入圖略す)。袋三ツ、紫地角龍(裏花色が、珠光漢東(なごり薄紫)、本能寺純子(裏上代海氣)、御物袋白縮緬。蓋三枚、洲利休好、織部好、遠州好(蓋の圖略す)。挽家黒塗、金泥蒔繪桐紋散し。袋木綿廣東裏海氣。箱桐白木、甲に金粉にて「御茶入北野茄子」とあり。外箱黒塗金粉字形。盆北野茄子可載、タメ蒔繪あるのみ。盆圖略。添物由緒書四通、大高竪紙茶入由緒覺(本文略す、前記)、美濃竪紙盆の書付(本文略す)、半切袋二の書付(本文略す)、大高半切袋二の書付(本文略す)。
(徳川家御道具書畫目録)

茄子茶入名物世に聞えし大概
北野茄子 醍醐茄子 豊後茄子
宗娯茄子 京極茄子 紹鴎茄子
みをつくし茄子 兵庫茄子
(茶事祕録)

北野茄子添掛物
一 札
一私代々所持仕候北野茄子之茶入貴樣御所望ニ付今度進上候、此茶入昔より名物之北野茄子ニ疑無御座候、若相違之儀御座候者、何時成共御返可被成候、茶入ヲ請取有之代金二千百兩返濟可仕候。
一右之茶入袋貳ツ、内壹ツは利休、同壹ツは遠州、ふたは織部殿、遠州殿御好ミ、ふた二枚也。
一右之茶入は秀吉公御物之御道具にて、北野茄子と申候、私先祖西宗眞妙國寺より所望仕所持申所紛無御座候、則古來より傳來之柘榴之盆并ニ妙國寺日現上人より書置候證文等迄、不殘進上申候、仍而如件。
延寶七己未年六月廿三日
堺 西九郎兵衞(印)
(花押)
鰯屋道甫代
同九郎二郎(花押)
奥平藤左衞門殿
(備考)奥平藤左衞門は久松家の執事なり。延寶時代の久松家主人は松平隱岐守定直にして、三嶋橘山、日新堂等の別號あり、諡號を大龍院と云ふ。
右掛物の箱 桐 白木 蓋表書付如次
北野茄子茶入添證文    一幅
茄子之茶入ハ祖父貞守定直公へ差上ル、于時享保五庚子之歳、定直公御遠去之節、爲御遺物公方樣へ御獻上、尤右茶入ニ添置候盆共ニ被差上候。
北野茄子
(伯爵久松定謨氏藏)

(備考)右北野茶入添掛物は享保五年幕府へ茶入獻上の節、久松家に殘し置かれたるものなり。
北野茄子 油屋常言より秀吉へ油屋肩衝上る代りに、鳥目三百貫北野茄子たまはる、松平隱岐守にあり。
(古名物記)

松平定英(飛騨守 後隱岐守 久松家第六代松山城主)元祿九年松山に生る、(中略)享保五年十二月十一日遺領を繼ぐ、二十八日隱岐守に改む、此日父(久松家第五代、隱岐守定直)遺物備前守家の刀、北野茄子の茶入を獻ず。
(寛政重修諸家譜)

傳來
天文十九年の頃松本宗不所持にして其後九州の吉水四郎に傳はり、後秀吉の有となりしが、偶々堺妙國寺の開基日珖上人の父なる油屋常言、其所持の油屋肩衝を秀吉に獻じたる代りに、此北野茄子及鳥目三百貫文を秀吉より拜領せり、寛永元年八月、妙國寺第五世日現上人諸堂相續の爲とて、銀四十五貫四百目にて之を堺の商人西宗眞に讓與せしが、延寶七年宗眞の裔九郎兵衞、金二千一百兩にて之を伊豫松山の藩士奥平藤左衞門に讓與し、藤左衞門より改めて今久松伯爵家の祖松平隱岐守定直に差上たるを、其子定英享保五年十二月二十八日襲封御禮の爲め、父定直の遺物として幕府に獻上し、爾來徳川宗家の什物となりて今日に及べり。

北野茄子
茄子の茶入名物世に聞えし大概
宗娯なすび 北野茄子 醍醐なすび
豊後茄子 みをつくし茄子 紹鴎なすび
京極茄子 兵庫なすび
(茶湯古事談)

天文十九年壬子五月二十六日松本宗不持ち來候
北野なすび
なりつきり在り、裾にてふつくりと有心そと有る也、比は少し小さき也、筋腰よりちとさがりてあり、口廣くあり、捻返しも美しくあり、藥蛇蝎心なり、口の側へも殊更蛇蝎藥もある也、下藥よし、とまりも頃もよし、ぶるまひたる藥也、石間裏表にあり、右石間一方の面と成る也、土中分は濃淺黄色也、一段黒もなし、朱なし、土に刷毛目きりゝとあり、藥の心惣別地の心土細かにてよし、袋かんとう横筋に成也、淺黄の心也、裏茶北絹也、天下が子興一と申者縫ひ候、同家柄の紋あり、此壺の口付惣て形つくもがみの茄子に似たると、松本宗不申候き、ぞとも違はぬ由申候、大きさは筒のふとさ指一つほど、此壺は小さき由申候。
(津田宗及茶湯日記)

北野茄子 西國に有之分 吉水四郎。
(天正名物記)

北野茄子 吉水四郎。
(大友興廢記)

北野茄子 西國 吉水四郎。
(東山御物内別帳)

北野なすび 堺 西宗信。
(玩貨名物記)

北野茄子 松平隱岐守殿内奥平藤左衞門。
(銘記録)

油屋常佐は泉州堺の人にて利休の弟子なり、肩衝所持して世に油屋肩衝と云ふ、常春の世に秀吉に獻じ其代として北野茄子を給ふ、其後妙國寺へ寄進し、諸堂建立の爲め、寛永年中阿知子宗内買求めて世に出ると。
(利休百會解)

妙國寺建立、永祿五年東西二丁、三好實休寄附、永祿十一年諸堂建築ト云フ、開山佛心院日珖上人慶長三戊戌八月廿七日寂、歳六十七、當山の過去帳ニ號佛直行院常言日意、永祿八丑十月朔日、七十七歳號佛信行院常祐、日徳天正七卯七月四日、當山大檀那とあり。日現上人は當山第五世なり、寛永十年四月四日寂、歳五十、珖師弟子字惠俊、天正十二年攝津堺産、元和災燒之後、積年未復、寺ニ有茶入號北野茄子、銀四十五貫目ニ拂之、本堂再建、當山所持の軸物の内次の文あり。
茶入由緒覺
北野茄子茶入與申者、永祿年中太閣樣ニ從油屋常言油屋肩衝與申茶入被指上候時、爲其御代此北野茄子鳥目三百貫文油屋常言ニ被下候、其後當寺開基權僧正日珖聖人之時、被致寄進之候、此度爲諸堂相續、則北野茄子唯今其方ニ遣之者也、以上。
寛永元年子八月五日 妙國寺 日現花押
西 宗眞老
被買得候北野茄子茶入之事
右代銀四拾五貫四百目也
則銀子相濟候也、御茶入隨ニ請取申候所明白也、爲後日如件
寛永元年拾月十八日  (宗眞花押)
妙國寺樣
(妙國寺文書)

北野茄子
(備考)附屬物茶入由緒覺及妙國寺文書には、永祿年中油屋常言油屋肩衝を太閣に獻じたる代りに北野茄子を賜はるとあり。然るに雲州松平家の文書には慶長の頃油屋淨祐(常祐と同人)油屋肩衝を太閣に獻すとありて、時代相違す。案ずるに大友興廢記に「北野茄子吉水四郎」とあれば、北野茄子は吉水より太閣に獻せしなるべし、太閣と九州との關係は彼の大友宗麟が其所持の新田肩衝を太閣に獻じたる天正十三年後の事なれば、此北野茄子も亦大抵其頃に太閣の手に入りしならん、左すれば永祿年中といふこと頗る疑ふべきに似たり。又万寶全書に「北野茄子山口所持」とあれど、其何人たるを審にせず。古今茶人系譜に山口宗古と云ふあり、利休百會に周防山口宗二と云ふあり、或は此人等の内なるべきか。又利休百會解に阿知子宗内買求むとあれど、是れ亦何人たるを審にせず。

實見記
大正七年十一月八日、東京府下千駄ヶ谷徳川家達公邸に於て實見す。
昨年公爵家より上野美術協會に出品せられたる節一度拜見せしが、見れば見る程見榮えある唐物茶入なり、名の如く、茄子形にして、紫色と黒釉と錯綜して光澤麗はしく、景色の變化言語に絶せり、胴中より少しく下りて火間あり、口縁に少しく繕ひあれど、玉縁圓やかにして精作なり、裾以下鼠色の土を見せ、絲切頗る細く、底の一端磨られたり、之に附屬する唐物蒔繪柘榴模樣四方盆も亦珍しき者にて、蒔繪は少しく騒々しきやうなれども、時代古きが爲め茶入と取合ひ惡からず、左れど是れが若し無地盆なれば、茶入の光澤が猶ほ一段引立つならんと思はれぬ。挽家は黒塗胴張桐金蒔繪にして、何處までも大閣縁故品と見受けられたり。

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