讃岐国(香川県)の陶器。
宝暦年間(1751-64)平賀源内は長崎伝来の交趾焼を大川郡志度(志度町)に試み、特に源内焼と称されてその遺法は甥源吾を経てその子孫に伝わりました。
これより先、赤松弥右衛門という者がおり、筑前国(福岡県)の陶工権助について陶法を修め、1738年(元文三)志度浦に築窯して唐津風の陶器を焼き、その子清兵衛(号道順)が業を継いでします。
清兵衛には三子があるようで、長男を光信(号松山)、次男を忠左衛門(号松林)、三男を新七(号大山)といいます。
松山は平賀源内に釉法を学び、二弟と共に父の業を継ぎ、志度で交趾風の製品を出して大阪・長崎方面で売り大いに声価を博しました。
1781年(天明元)12月火災に遇い、富田村金山(さぬき市大川町)の麓にあった藩主の窯および製造用具・陶土などの借用を願い出、ここに移って染付・南京焼を始めました。
1788年(同八)富田村の窯を弟子の亀田屋藤蔵に譲り、再び志度に帰って製陶を業としました。
銘は楕円内に楷書で松山としたのを用いました。
一般にこれを志度焼といいます。
1796年(寛政八)松山は高松に転じ、のち香川郡宮脇村(高松市宮脇町)に移り、1821年(文政四)八十四歳で没しました。
松山の嫡子真と三男清助か志度で業を継いですが、孫の陶浜の代になって高松に転じました。
(『本朝陶器孜証』『讃岐案内』『讃岐陶磁器史稿』)
志度焼 しどやき
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