銅質緑色の陶釉。硫酸銅 硫酸第二銅のことをいい、銅を釉成分に少量加えたい時に用いられます。
肥前(佐賀・長崎県)の赤絵料には古来緑磐(硫酸鉄)を焼いた酸化鉄を使用したことから推測しますと、銅緑釉のはじめも胆磐からつくったものであるでしょうが、後世は銅屑などを使用しました。
近代の青織部釉でもセン屑(真鎗粉)・ヘゲ(冶工が銅板をつくる時酸化して生ずるもの)などを使用します。
天平甕器の軟釉はともかく、堅焼物の銅緑料は安土・桃山時代に朝鮮から唐津に渡り、さらに美濃久尻(岐阜県土岐市泉町)あたりに伝わり、続いて瀬戸方面に広まったものであるだろうと思われます。
瀬戸および美濃瀬戸系の諸窯では黄瀬戸の部分に胆磐釉が添加され、さらに織部釉にも加えられ、ついには土焼の青流釉(瀬戸のいわゆる上野釉)ともなりました。
わが国の鉱山事業発達の歴史からみますと、平安時代から鎌倉時代を経て室町時代に至る間は、採鉱冶金の術は非常に衰微し、安土・桃山時代を一転機として銅の産出は次第に隆盛となり、江戸時代になって金銀の輸出が禁じられた後も銅だけは輸出を許されたため、造幣の原料として以外に貿易品として盛んに産出されました。
この反映を瀬戸系陶窯の製品のうえでみますと、古代には銅釉の使用された形跡がまったくみられず、安土・桃山時代のものと考えられるあやめ手黄瀬戸の発生と同時に、銅緑の斑点が黄瀬戸釉の表面に現われました。
初めは銅は貴重視されたためわずかに斑点を施したにすぎなかったが、銅の産出の増加に比例して多量に使用するようになり、織部には器物の半面または全面に銅緑釉を施すまでになりました。