武野紹鷗 たけのじょうおう
茶道初期の茶人。
利休の師。
1502年(文亀二)生まれ。
姓は武野、名は仲村。
童名松菊丸、通称新五郎。
大黒庵・一閑と号しました。
若狭国(福井県)武田氏の流裔。
父信久の代に堺に定住して姓を武野と改め、三好氏の庇護を受け皮革を扱い武具調製を業とし豪富を積んです。
仲村は早くから学芸に志し、1525年(大永五)二十四歳で上洛し歌道を三条西実隆に学び親近年を重ね、二十九歳でその推挽をもって従五位下因幡守に叙任されました。
1532年(享禄五)三十一歳のとき母の死に遭い、剃髪して紹鴎と称しました。
1549年(天文一八)四十八歳のとき堺南宗寺の大林宗套から一閑の道号を与えられました。
この間京洛・堺の間を往復し京都四条の夷堂の側に大黒庵を営んだといわれます。
紹鴎は茶を下京の藤田宗理・十四屋宗悟・宗陳に学び、珠光の茶統に富裕な堺商人の感覚と自らの和学の教養を合わせて佗び茶の方向を深め、やがてその弟子に茶の湯の大成者たる千利休を打ち出すに至りました。
『山上宗二記』に「引拙ノ時迄八珠光ノ風体也、其後、紹鴎悉改令追加畢、鴎ハ当世ノ堪能、先達中興也」とあるのがそれであります。
実隆から授けられた藤原定家の『詠歌大概之序』の「情以新為先、求人未詠之心詠之」という創意を尊び、定家の「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとま屋の秋の夕ぐれ」をもって茶の理念とすべきことを説き、また「古人ノ云、茶湯名人二成テ後ハ、道具一種サヘアレバ佗数寄スルガ専一也、心敬法師連歌の語曰、連歌ハ枯カジケテ寒カレト云、茶湯ノ果モ其如ク成タキト、紹鴎常二辻玄哉二云レシト也」(『山上宗二記』)とあるようで、また自らも「正直に慎み深くおごらぬよう」(紹鴎「佗びの文」)といい、「我名をば大黒庵といふなれば袋棚にぞ秘事はこめける」とある有名な紹鴎袋棚について「袋棚を或いはぬり或いは蒔絵し結構にはすべからず、其のまゝの板にて農相なる所に物ずきは有り」(利休「野村宗覚宛伝書しともみえています。
紹鴎はこのような考えから、茶室においては珠光以来の四畳半を草風に改め、また及台子・袋棚・土風炉・蚕茶入・木地曲物・竹蓋置・竹自在などの佗び道具を案出し、陶器においても南蛮芋頭水指・信楽鬼桶水指・備前面桶建水などの佗びものに新しい価値を探り出しました。
しかし紹鴎は同時に古い唐物の名物をも数多く所持し、「当代千万ノ道具ハ皆紹鴎ノ目明ヲ以テ被召出ル也」(『山上宗二記』)とてその目利による新古の所蔵は実に六十種に及んだといわれます。
紹鴎の弟子には三好実休らの数奇大名をはじめ、当時堺の富裕茶人のほとんどはその門下でありましたが、うち津田宗及・今井宗久・千利休が最も聞こえています。
また武野宗瓦はその嫡子であります。
1555年(弘治元)10月29日没、五十四歳。