大阪の陶器。
起こりは肥後国山本郡(熊本県鹿本郡)高原郷出身の高原藤兵衛によると伝えられますが、また高原平三郎が開窯したともいわれ、当初の窯は末吉橋付近(南区)にありました。
正保(1644-8)頃にはすでに焼いていたようで、のちに片桐石州により将軍家に推挙されて、1653年(承応二)には高原平兵衛が分かれて江戸に移り、浅草本願寺前に屋敷を賜り、幕府御茶碗師として御用窯を始めました。
これを江戸高原焼といいます。
作品は主に朝鮮写しで特に御本写しを得意としました。
名工春助の名も伝わっています。
大阪の高原焼はのちに小橋に窯を移しましたが、楽焼も製しました。
江戸高原は幕末まで続きましたが、その後この窯は廃されました。
※えどたかはら