一説に古九谷の創始者に擬されています。
『荒憩紀聞』に「九谷焼は後藤が焼きたるにあらず、田村権左右衛門と云ふじの焼たりと云ふ、九谷の宮に花瓶一対あり田村権左右衛門明暦元年6月廿6日と藍にてあるようで、是は焼物手初に此の花瓶を焼き奉納したると云伝ふ」とあります。
ところが『茨憩紀聞』よりも約百年以前の著作である『加越能三州山川記』には「此山中を九谷と云、明暦年中実性院公後藤氏に命じて土器を焼かしめし所也」とあるようで、権左右衛門の名はみえないようです。
また大聖寺藩の分限帳のいずれの時にもこの名はないようです。
しかしその遺作が歴然としていること、および大聖寺実性院の後藤才次郎定次(才次郎忠清の父)の位牌に後藤氏・田村氏と並記してあることなどをみれば、権左右衛門は才次郎定次と共に明暦年間(1655-8)に九谷村で初めて磁器の焼成を試みたのであるでしょう。
(『九谷陶磁史』)