妻木窯 つまぎがま

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鶴田 純久の章 お話

美濃国土岐郡妻木村(岐阜県土岐市妻木町)の陶窯。
久尻窯の筑後守景延の子加藤太郎左衛門景重の創始で、1570年(元亀元)妻木領主が普請した時屋根瓦を仰せ付けられ、天下一筑後窯の免許を賜ったといわれます。
一説では、久尻窯の祖加藤与三兵衛景光の三男太郎右衛門景貞が妻木窯の始祖だとしています。
しかし妻木領主の屋敷跡から掘り出された油滴・水滴のようなものをみますと、筑後窯でつくられたものではなく、まったく鎌倉時代のものと思われます。
また窯跡の出土品のうち筑後窯以前のものと思われるものは、手提ねの作が多く、高台に籾の痕を印するものがあるようで、また釉薬を施したかと思われるものもありますが、全体に素焼のように歪んでいます。
さらに素焼のままのものもあります。
土中に含まれる石英・鉄気などの溶解によって一種の艶が出て釉薬を施したかのようにみえるものと思われます。
要するに行基焼の類であります。
『茶器弁玉集』の瀬戸竃所之次第に、「妻木窯、所を云へり、上作」とみえます。
ところで景重の子長三郎は太郎左衛門とのちに改名しましたが、この太郎左衛門が同村の庚申堂に寄進した香炉が今に残っています。
これは釉薬を用いていないかのようで、色が暗紫色で質が堅緻でありますが、様式・図案など一見交趾のようであります。
器底に「正保二年壬5月29日加藤太郎左衛門景重」とあります。
また同人が奉納したという高坏が一双あります。
土焼でいわゆる仁清釉薬というのを掛け、一見粟田焼のようであります。
見込みに松を、腰には十六弁の菊花と観世水ともいうべきものを描いています。
その絵は型紙で捺したものであります。
この太郎左衛門以後の系統は不明で、嘉永年中(1848-54)になって日東千左衛門という者がいて、当時の領主で旗本の妻木伝兵衛の命によって小皿・菓子鉢・銚子・土瓶・盃洗・丁子風炉釜などをつくったことがありました。
磁器の創始は文化・文政年間(1804-30)といわれ、尾張国志段味村(名古屋市守山区)の久米蔵という者の伝であります。
弘化年中(1844-8)商売株の制がしかれましたが、当時の製品は寿紋皿・角手塩・熊谷茶碗・茶漬け茶碗・富士越茶碗・紋輪・湯呑みなど。
明治になって商業がすべて自由になりますと、水野勘兵衛が苦心してフランス焼のコーヒー碗を真似してつくって成功しました。
(『岐阜県産業史』『日本近世窯業史』)

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