幕末の頃名古屋の東端川名村(名古屋市昭和区川名町)で寺尾市四郎がつくった銅版磁器を銅版焼と呼んだことがありました。
わが国の銅版磁器の元祖は瀬戸の陶工壕仙堂川本治兵衛で、天保年間(1830-44)オランダ製の銅版磁器から思いついて工夫しましたが、今日のようにコバルトの輸入がありませんでしたので、下等な呉須では色の出方が薄くて役に立だなかりました。
それで最も上等の呉須に糊と油とを混合して銅版に塗布し、ぶきり紙という婦人の結髪に用いる薄い紙に印刷し、その紙をまた素地に貼付し象牙や鯨骨でその上を摩擦し、よく呉須を付着させてから素焼窯に入れ、素焼と共に紙も燃やしてしまったといわれます。
当時の銅版が今も陶玉園加藤五助・真陶園川本半六の家にあります。
壕仙堂の門下新七はよく師の志を受け継いで、文久年間(1861-4)川名に新窯を起こし銅版磁器をつくりました。
なお年代は確かではありませんが、塊仙堂とあまり遠くない時代に紀州偕楽園焼に銅版絵付がありました。
(『近古芸苑叢談』『大日本窯業協会雑誌』五四・一二こ