井戸茶碗は朝鮮茶碗の王者といわれ古くから茶人間で最も珍重され、「一井戸二楽三唐津」などと唱えて賞翫されました。
井戸は最も名品が多いというだけでなく数量も種類も他の茶碗の数倍もあるのは、おそらく朝鮮で最も広く民間に普及し窯数も多く名工も豊富にいたためなのであるでしょう。
井戸茶碗を焼成した時代は一般に大体六、七百年前とされています。
東山時代から唐物茶入と共に高麗茶碗が珍重され、珠光青磁に次いで井戸茶碗が第一に推されました。
高麗茶碗といわれているものの多くは李朝時代の製作でありますが、ただ一つ井戸茶碗だけは高麗時代の旧製と見なされ、時代が古いのと鑑賞的条件を具えていることによって注目されました。
天正年間(1573-92)にはこの茶碗一個が米一万石から五万石と交換されたといわれ、現在でも数百万円から数千万円の値の付くものもあります。
産地についてはかつて本手井戸は慶尚南道彦陽の産、青井戸は慶尚南道梁山郡東部の産であるという提言がありましたが、現地を発掘した結果では遺轤ながらこれを裏書きできなかったといわれます。
種類が極めて多いところから、多分生産地の区域も広く窯数も多かったのであるでしょう。
【種類】井戸は種類が非常に多く茶碗以外の佳品も少なくなく、時代の新旧もまたまちまちではありますが、以前から茶人間の種類別は名物手(大井戸)・古井戸(小井戸)・青井戸・小貫入・井戸脇とし、小貫入は古井戸の脇(準ずるもの)で、井戸脇は青井戸の脇であるという説が最も当を得ているようであります。
すなわち小貫入は古井戸よりも下手であり井戸脇は青井戸よりも粗品であります。
ただしその下手粗品の中にまた別な特徴を具えて、かえって見所のあるものもあります。
各項参照。
【名称の由来】井戸茶碗の名称の由来については諸説があり、朝鮮の地名説が最も有力であるがまだ定説はないとみるのが妥当。
以下二、三の説を参考に掲げます。
井戸茶碗は井戸若狭守覚弘が朝鮮出征の時に向こうでこれを手に入れ持ち帰ったのでこの名が付いたという説があります。
『寛政重修諸家譜』には「井戸覚弘は朝鮮陣の時喘井定次に従ひて肥前国名護屋に至り岐阜宰相秀信の手に属して朝鮮に渡海し武功を顕し、かの地に於いて鞍及び高麗焼の茶碗十箇を得たりしを凱旋の後数年を経てかの茶碗五箇を徳川家康に献じ五箇を豊臣秀頼に参らするの処家康その一を返し覚弘が得たるところのものなれぱとて井戸と命じて之を賜ふ」とあります。
新井白石の『紳書』には「井戸手の茶碗は井戸三十郎の朝鮮より取って来りて太閤に進ぜしを秘蔵ありて常に井戸の茶碗と召されし故にその形なるを井戸手と申しますなり」とあります。
井戸の名称の起原としてはこの説が最も広くいわれていますが、天正年間の茶書に時時井戸茶碗というものがあるところをみればこの説もまた疑わざるを得ないようです。
すなわち『津田宗及日記』『古織茶会記』『宗湛日記』など井戸若狭守以前の記録にすでに井戸の名称があります。
また『結既録』には「井戸茶碗の事、或人云く印度より出づ、故に名づく、印度は天竺の異名なり、古来井戸と書くは非也と、稲子話にこの説非也、この茶碗、昔京都将軍時代か、井の中に埋もれて多く有りしを掘り出せしより井戸茶碗と云ふ、本高麗茶碗なり、叉説に形ち井戸に似たる故井戸と云ふは大に誤なりと」とあります。
『嬉遊笑覧』には「太閤の時井戸若狭守朝鮮より茶碗を取りて献ぜしを井戸手焼といふ、井戸は掘りぬくものなれば是根抜にて古渡最上の意にいふなり、井戸を家苗のことにいふ説は非なるべし」とあります。
また井戸は章登のことで慶尚道の地名であるとの説が多いようです。
萩焼の創始者高麗左衛門、高取焼の創始者八蔵や新九郎は共に章登の出身と伝えられていますから、同地に陶業があったのであるでしょう。
井登は灘登を通俗的に書き改めたものであるでしょう。
しかし灘戸の地が果たしてどこにあるのか明らかでないようです。
また朝鮮語で釉薬を衣土といいますので、井戸はそれの転誂であろうという説もあるが定説はまだないといえます。