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鶴田 純久の章 お話
砥部焼染付鉢
砥部焼染付鉢

愛媛県伊予郡砥部町の磁器。
大須藩主加藤泰侯が1775年(安永四)家臣加藤三郎兵衛に命じて築窯させたのが起こりとされています。
加藤三郎兵衛は伊予郡原町村大字宮内(砥部町宮内)の杉野丈助を監督とし、肥前国(長崎県)大村藩内の長与焼の陶工五大を招いて砥部村大字五本松上原(砥部町五本松)に窯を築いました。
また一説に砥部の門田金治が出資し、杉野丈助を技術者として、同年に窯を創めたともいいます。
当初は地元の砥石屑を原料として磁器を焼いたが失敗し、長与の陶工たちは帰国しました。
1776年(同五)筑前国上須恵(福岡県釉屋郡須恵町)の陶工信吉が砥部を訪れ、この失敗は釉パと灰が悪いためと教えたので、1777年筑前から釉石とイス灰を取り寄せて試焼したところ初めて成功しました。
これが砥部磁器の最初であります。
丈助は藩内に釉石を踏査し、伊予郡北山崎大字三秋(伊予市三秋)に良い釉石を発見し、これを使って磁器の焼成を始めました。
砥石屑は素地原料として不良ですので、文化(1804-18)頃からは川登の川底から発見された磁石を使うようになりました。
次いで高野川の釉石や高坊師の臼磁石が発見され向上しました。
文久年間(1861-64)には染付の技術が改良され、明治初年からは上質の白磁も焼かれるようになりました。
また肥前の陶工を招いたり、京都から錦手技法を伝習しました。
当時の製品には中国の十錦手に倣った郡中十錦や、中国の建窯白磁に似て淡黄色を帯びた淡青磁もあります。
天明(1781-9)以来の名工天明 としては城戸喜代八・向井源治(文化)・金岡音左衛門(文政)・都地大蔵(嘉永)・宮本勇治(明治初年)・伊藤允譲(明治初年)・向井和平(明治初年)・城戸徳蔵(明治中期)などがいます。
江戸時代には主に染付を焼き、鉄絵の徳利も量産しました。
現在は窯元が三十三軒あるようで、四国では最も盛んな窯業地であります。

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