高取焼 たかとりやき

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鶴田 純久の章 お話

福岡県の陶器。
文禄・慶長の役(1592-8)後わが国に伝わった朝鮮系陶窯の一つで、創窯以来数回も窯場を移転させたが、終始福岡藩主黒田家の藩窯として、また遠州好み七窯の一つとして有名であります。
年序に従ってその沿革を概説すれば、(一)古高取慶長の役の時黒田長政に従帰した朝鮮毒登の陶工に八山という者かおり、1600年(慶長五)12月黒田氏が豊前中津から筑前福岡に転封した時、八山は命によって鷹取山の麓の永満寺宅間(直方市)に陶窯を創設しました。
これが高取焼の始まりであります。
1614年(慶長一九)同地内ヶ磯に窯を移し、八山の姻戚で当時加藤清正によって従帰し肥後国(熊本県)小代焼にいた犀登新九郎を招いて、八山と共に製陶させました。
その製は主として茶器で、質は堅硬で、茶褐色釉を施し、その上にまだらに黒色釉を掛けています。
また唐物と同様に左糸切で、総じて朝鮮のものに劣らず後世古高取として珍重されました。
のち八山は高取八蔵という姓名と七十大扶持を得てすこぶる厚遇されましたが、かえって世評に甘え不遜の行為があったために、藩主忠之の怒りにふれ食禄を没収されました。
その後八蔵とその子八郎右衛門は一時嘉麻郡山田(山田市)の唐大谷に窯を起こした。
遠州高取1630年(寛永七)に至って八蔵父子は再び招じ返され、改めて穂波郡合屋の内中村白旗山(飯塚市中)の北麓に窯を築き、また命によって山城国伏見(京都市伏見区)に至り小堀遠州から茶器の指導を受けた。
遠州好み七窯の名はここに発するものであります。
ちょうど当時唐津城主寺沢氏の浪大五十嵐次右衛門が筑前に来ており、非常に瀬戸の陶法をよくしたので藩主はこれを聘し、八蔵と共に製陶に従事させました。
これより製作は進歩し、かの中興名物茶入に選ばれた高取大海・同耳付・同腰蓑・松風・手枕・横雲・秋の夜・染川などの精作を出すに至りました。
遠州高取の特徴を挙げれば、陶質緻密で、釉は白色または浅碧あるいは暗灰色を帯び、時に青黒のものがあるようで、いずれも滋潤の肌を現わし、また時として窯変して釉相が金色を呈するものもあります。
また古製には下釉がなかったが、五十嵐の瀬戸風を加えてから初めて下釉が加わりました。
遠州高取の多くは寛永(1624-44)から正保(1830-44)末年までの作のようであります。
(三)小石原高取1667年(寛文七、一説に1665年)藩主光之の時、窯を上座郡小石原鼓ヶ滝の下流鼓村(朝倉郡小石原村鼓)に築いました。
これを小石原高取といいます。
(四)東山高取四代藩主綱政の1708年(宝永五)2月に、八蔵の子孫を早良郡島原村上の山(福岡市西新町)に招いて製陶させました。
これを東山あるいは東皿山と呼んで明治維新に至るまで連綿と継業し、藩は特に皿山奉行を置いて直接監督に当たりました。
東山はこのようにまったくの藩業であったので、その製品も初めは抹茶碗・茶入・置物などの種類に限定し、焼成もまた年一回に限ってもっぱら精作を出すことに努め、主として幕府および諸侯への贈答用に当てた。
享保(1716-36)頃より香炉・水指・茶碗・香合など品種を増し、また文久年間(1861-4)には東山役所を置いました。
しかし明治維新に当たって藩の保護は止み、この伝統ある高取焼もたちまち衰退に傾いました。
1889年(明治二二)4月森長三郎という者がこれを慨嘆し、室見川畔藤崎(福岡市藤崎)に窯を再興し、七代高取英一もまた1899年(同三二)に窯を今川橋畔に築いました。
現在福岡に亀井味楽、小石原に高取静山がいます。
以上は高取焼正系の略述でありますが、なおほかに五代藩主宣政の時、精品専門の東山に対しもっぱら日用品を焼くために東山から西数百メ一トルの所に西皿山を起こしました。
これが現在の西新町窯であります。
また寛永年間(1624-44)に小石原の陶工が福岡城町田島村東松原(福岡市田島)に来て開窯した(これを田島高取、一名有泉亭御庭焼といいます。
が、土質が調和せず焼切れが多かったのでしぱらくして廃止し、さらに1716年(享保元)に西皿山に移転したという説もあります。
また福岡市雷山および同市能古においても高取焼の窯があったと伝えています。
(『陶器考付録』『本朝陶器放証』『観古図説』『工芸志料』『大日本窯業協会雑誌』八三『大正名器鑑』『茶わん』五〇・五三・五四・五五)※にししんまちがま

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