



種村肩衝(たねむらかたつき)
中国製 大名物 別名:木下肩衝、または都帰り 伯爵 松平直亮氏 所蔵
【名称】
種村は、一説には棚村とも言います。「種(たね)」と「棚(たな)」は日本語の読みが似ているため、互いに混同されたものでしょう。奈良の松屋源三郎の『松屋日記』には、「種村肩衝は、近江の種村殿が所持していたため(その名がついた)」とあります。つまり、所持者の名前であることがわかります。後に木下宮内がこれを所持したため、木下肩衝とも呼ばれます。その後、絵師の狩野探幽の手に渡り、明暦3年(1657年)の大火の際にすでに焼失したと思われていましたが、思いがけず京都でこれを見つけ出し、再び江戸に持ち帰ったことから、さらに「都帰りの茶入」とも呼ばれるようになったということです。
【寸法】
高さ:2寸7分
胴径:2寸8分
胴回り:8寸6分
口径:1寸6分3厘
底径:狭い所 1寸6分 / 広い所 1寸6分5厘
甑(こしき)の高さ:4分
【附属物】
蓋 6枚(それぞれに窠(す)と呼ばれるくぼみあり)
蓋の箱:桐の白木
(木下肩衝の蓋、松平不昧公の書付あり)
御物袋:紫の縮緬(ちりめん)、結び緒は紫
包み物:紫の羽二重の綿入れ
袋 4つ
・本能寺純子(裏地は萌黄色の海気、緒は遠州茶色)
・折枝模様縞純子(裏地は海気、緒は遠州茶色)
・金剛切(裏地は紫紋の海気、緒はビロード)
・広東織留(裏地はかべちょろ、緒は紫色)
袋の箱 2つ
桐の白木(不昧公の書付あり)
(木下肩衝の袋:本能寺、折枝模様、金剛切の3つを入れる)
桐の白木(不昧公の書付あり)
(種村肩衝の袋:広東織留を入れる)
挽家(ひきや=茶入を収める筒):黒塗り、縁に金粉
袋:紫の革、紐は御納戸茶色
包み物:紫の羽二重の袷(あわせ)
内箱:桐の白木
(唐物肩衝、狩野探幽の書付あり)
蓋の裏に「堺の町人誰それよりこれを求む」という張紙がある。
袋:紫の革、緒は茶色
外箱:桐の白木(煮黒み仕上げ)、錠前付き
「唐物丸」の文字(筆者は未詳)
包み物:茶純子の綿入れ
添盆:藤重四方盆(内側は赤、底は黒、縁は青漆で笹の模様入り)
一辺6寸5分8厘、見込み(内側の平らな部分)は一辺5寸8分
袋:芝山純子(裏地は波に鳥模様の純子、緒は浅黄色)
内箱:溜塗り(小堀遠州による金粉の書付あり)
外箱:杉の白木(松平不昧公の弟・松平雪川による墨の書付あり)
包み物:花布(裏地は御納戸茶色の羽二重)
【雑記】
棚村肩衝 狩野探幽。(『古今名物類聚』より)
棚村肩衝 「木下肩衝」ともいう。狩野探幽。(『古名物記』より)
肩衝 佐久間右衛門尉。(『天正名物記』より)
田名村肩衝 佐久間甚七の所持で、現在は関白様(豊臣秀吉)にある。(『山上宗二之記』より)
種村肩衝 佐久間甚九郎の所持。(『東山御物内別帳』より)
木下かたつき 狩野探幽。(『玩貨名物記』より)
種林 異名として「種村」ともある。佐久間甚九郎(また承禎ともいう)所持。縦2寸7分、横2寸8分、回り8寸6分、底1寸7分、口1寸6分、口の高さ4分。下地の釉薬は濃い柿色、手跡のあとに薄い柿色があり、上掛けの釉薬は荒い蛇蝎(だかつ)釉である(茶入の図あり)。(『万宝全書』より)
松本肩衝(松屋肩衝)と種村肩衝は寸法が同じである。しかしながら、種村肩衝は口が広くて不恰好である。近江の種村殿が所持していたためこの名があり、佐久間不干斎が所持して、今は木下宮内殿のところにあるのか。形は何とも言い難いものである。初心者は「丸壺」などと言うほどのもので、一段と背が低くなっている物である。しかし昔から名高い、隠れもない名物の肩衝である。だからといって、多くの名物を見ていないような中途半端な知識の人には、大事な道具を見せるのは嫌なことである。肩衝を4つか5つくらいしか見たことがないような人には、到底その良さはわからないであろう。それぞれ形が様々に違うのである。(『松屋日記』より)
天正6年(1578年)正月22日の朝、佐久間甚九郎殿の茶会
一、炉には 自在鉤に釣るべ
一、床には 肩衝(四方盆に載せる)、ただの天目茶碗と黒塗りの台、金襴の袋
(『津田宗及茶湯日記』より)
天正6年(1578年)10月28日の朝、佐久間甚九郎殿の茶会
宮内法印が土産として黄金5枚と灰被り(はいかつぎ)の天目茶碗を持参された。
座敷には宮内法印、津田宗及。茶を点てたのは山上宗二。
一、床には 天目台に法印土産の天目茶碗。
一、炉には とんぼの釜を細い鎖で。
一、水屋の手の間に手桶を置き、肩衝を袋(白地の金襴)に入れ、盆はなし。
(『津田宗及茶湯日記』より)
佐久間宗透(さくまそうとう) 官位は従五位下、通称は甚九郎、本名は正勝、号を不干斎といった。右衛門尉・佐久間信盛の息子である。父子ともに右大臣・織田信長公に仕え、茶の湯で有名であった。最初は宗悟(武野紹鴎の弟子)に師事し、後に武野紹鴎と千利休という二人の偉大な茶人の門下に入った。彼が長寿であったためその両方に師事できたことがわかる。考えると、不干斎が茶人として名を馳せたのは利休以前のことであり、後になっても利休に教えを乞うていた。彼の家に伝わる漢作(中国製)の茶入は、種村という名器と称されている。(『茶人大系図』より)
棚村(たねむら) 「木の下」ともいう。狩野探幽の所持で、現在は雲州公(松平不昧)の所蔵。濃い飴色の釉薬に白いなだれ(釉薬が垂れた模様)があり、「残月」という茶入とは釉薬の景色が異なる。底は板起こし(平らな作り)、鼠色の土、黒漆の縁取りがある。附属物や茶入の絵図が載っている。(『麟鳳亀龍』より)
唐物種村肩衝 「木下」とも、「都帰り」ともいう。全体的に下地は黒みを帯びた柿色で、蛇蝎(だかつ)釉の景色があり、それはかすかに存在している。土の質はなまっており、口の作りは非常にすっきりしている。火間(釉薬がかかっていない部分)が3つあり、少し平べったい形で、少し不恰好である。肩に大きな筋が1本あり、その作りはとてもすっきりしている。裏側の筋の所には、パラパラと蛇蝎釉がかかっている。(『茶入名物記』より)
種村 飴色で黄味がかった釉薬があり、筋が2本ある。底は板起こしで、肩にも大きな景色がある。松屋肩衝の正面の景色がないような茶入である。下地の釉薬は柿色。(『伏見屋手控』より)
棚村 漢作で正真正銘の唐物(中国製)である。棚村という名物で、狩野探幽の所持。後に「都帰り」と銘を改めた。釉薬の景色や風情が格別である。(『名器録』より)
棚村 漢作(中国製)である。新田、勢高、不動、玉堂といった名物茶入と同時代(の作)である。松屋肩衝と釉薬の掛かり方は同時代といえるが、作られた時代としては少し劣っている。(不昧著『瀬戸陶器濫觴』より)
棚村肩衝 「都帰り」ともいう。狩野探幽の所持。全体に瑠璃色が出ており、また、肩に大きな筋が1本、甑(こしき)の下にある。所々に細かく蛇蝎(だかつ)釉がかかっており、正面の景色は薄く、そこにも蛇蝎釉がある。火間が3つあり、そのうちの1つの火間の中に少し蛇蝎釉がある。少し平べったい形で、底は板起こし。口縁の捻り返しが少し大きく、その部分が非常に良い。(附属物に関する記述あり)。(『慕庵文庫』甲第九号より)
徳川家光様の時代に高価だった茶入は、京極安知や金森出雲殿が欲しがった代金3千枚の茶入(中略)。また、「木の下肩衝」と申す茶入は、木下宮内少輔殿から金1千4百枚で探幽法印(狩野探幽)が買い求めたもので、蓋や袋は小堀遠州の好みで作られた。(『桜山一有筆記』より)
種村肩衝 別名「木下肩衝」。佐久間不干斎の所持であった。狩野探幽が代金1万両でこれを求めたという。その子孫の時代、丁酉(明暦3年)の江戸の大火の際に、持っていた人が道端に捨ててしまったが、この茶入が京都に上り、一条宗貞が見つけ出した。銀千貫である人が求めたとのことで、牧野佐渡守殿の元へ上がった。その後、再び探幽の元に返されたと言い伝えられている。(『雪間草茶道惑解』より)
狩野探幽は、名誉ある画家であり、茶道もよく嗜んでいた。ある時、大金を出して茶入を買い求め、大切に秘蔵していた。酉年(明暦3年)の大火事で神田橋の邸宅も類焼した時、家来が密かにその茶入を盗み出し、京都へ送って売り払ってしまった。そして主人(探幽)には「焼失しました」と嘘をついておいた。その後、探幽がその茶入を買い戻して、銘を「都帰り」と改めて、さらに大切に秘蔵した。今は井伊掃部頭(かもんのかみ)の家にあるとかいうことだ。(『明良洪範』より)
狩野探幽が数百金を投じて手に入れた茶入があり、これを非常に深く愛好していた。茶の湯を好んでいたが、ただこの一つの茶入だけを使ってお茶を点てていた。ところが、明暦3年の大火事の際、(探幽の邸宅も火災に遭った。その時、彼はその茶入を箱ごと自分の首に結びつけて火を避けようとしたが、)炎が非常に激しく、辛うじて身一つで脱出した。その際、その茶入を失ってしまった。その後は心ここにあらずで、ただ鬱々として暮らしていた。何年も経って後、宮中の修復工事の絵を描くために京都へ赴いた。ある時、京都所司代の板倉周防守殿(牧野佐渡守の誤り)に呼ばれて出向いたところ、周防守と対面し、昔話のついでに「あの茶入は火事で紛失したそうだが、どうしたのか」と尋ねられた。探幽は「すっかり忘れておりましたものを、思いがけないことをお尋ねになり、当惑しております」と申し上げた。周防守は「私もその茶入でお茶をいただいたことがあるので、特別に思い出したのだ。お前が比類ないほど秘蔵していると聞いていたから尋ねたのだ」と言ったところ、探幽は「どうかそのお話はおやめください。心が取り乱してしまいます」と答えた。
その時、周防守は小姓を呼んで「あの茶入を持ってこい」と命じ、すぐに茶入が持ち出された。周防守は手に取ってじっくりと見て、「世の中には似た物もあるものだな。あの茶入は私も一度見たことがあるだけなのではっきりとは覚えていないが、最近似た物を見せてもらったのだ」と言って探幽に渡した。探幽は手に取って大いに驚き、「これはあの茶入です!これはこれは!」と言ったまま気絶してしまった。周囲の者たちは大騒ぎになり、水をかけたりして、ようやく探幽は息を吹き返した。再びその器を見て、「いよいよ間違いなく私の茶入です。本当に不思議なことです。この世に存在するはずのないものです」と言った。周防守は「それでは私の目も狂っていなかったな。この茶入は最近道具屋が持参したもので、思いがけずあの茶器だと気づいたので、お前に返してやりたいと思って買い求めておいたのだ。今すぐ贈ろう」と言って、探幽にこれを与えた。この時、銘を「都帰り」と名付けた。この探幽が気絶したというエピソードは、真の愛情と言えるだろう。中国の晋の王羲之が酔って書いた『蘭亭序』は、一度はこの世から失われたと思われていたが、唐の太宗が探し出して、その孫の僧・智永に見せた時、智永が一目見て声を失って喜んだというのも、同じような心境である。(室鳩巣著『可観小説』より)
明暦3年(1657年)丁酉の正月、江戸の大火事の時、絵師の狩野探幽が秘蔵していた「棚倉」(種村の誤り)という茶入を、気心の知れた家来に「くれぐれも大事に持って逃げろ」と言いつけて持ち出させたが、その者は焼け死んでしまった。しかし茶入は箱に入ったままその傍らに転がっていた。そこへ京都から来た飛脚が通りかかり、拾い上げて見たところ、箱や袋の様子がただ事ではなく、「これはきっと良い物に違いない」と京都へ持ち帰り、道具屋へ売った。それが唐物屋の手に渡り、橘屋宗元という者が買い取った。人々はこれを見て「これは間違いなく名物だろう。もし今回の大火事で幕府の御道具が紛れ出たものだとすれば、後日のお咎めも心配だ。ともかくこの旨を役所に届け出ておくべきだ」と、すぐに二条の役所へ申し出た。
その頃の京都所司代は牧野佐渡守親成殿で、茶道を好み、その上目利きも良かったので、「まずは一目見てみよう」ということで、宗元が持参した。親成が一目見て、「これは以前、江戸で狩野探幽のところへお茶に呼ばれた時、彼が秘蔵だと言って出した『棚倉』に違いない」と言った。その時の話で「京都の者が仲介して手に入れた」と探幽が言っていたので、その仲介者がいるのではないかと京都中を調べさせたところ、一条の宗貞という者が「その仲介は私でございます。茶入の形や寸法なども書き写してあります」と申し出た。それを見せると、間違いなく棚倉であることがわかった。橘屋に尋ねると「代金銀3百貫目で買い求めた」と答えたので、親成はその詳細を探幽に知らせた。探幽は大いに喜び、弟子に銀3百貫目を持たせて上京させた。親成の世話によって再び探幽の元へ戻ったため、親成が「都帰り」と名付けた。後になって親成が江戸へ下った際、探幽は伺候して厚く礼を述べ、「このご恩返しには、何でもご希望の絵を私が筆を揮って差し上げたい」と申し出た。
(探幽が「何でもご希望の絵を差し上げたい」と申し出たところ、親成は)「それならば、富士山を十幅対(10枚セットの掛け軸)に描いてくれ」と言った。探幽は「それは昔から例もなく、10枚に描き分けるのは難しいでしょう」と申し上げたところ、親成は「もっともだ。私の注文も素人じみた言い分だったが、お前もまだ達人の域には達していないようだな。昔の名人なら、決して描きあぐねるようなことはないだろう」と言った。そこで探幽はしばらく目を閉じて考え込み、「いやはや、すぐにお引き受けしなかったこと、口惜しく存じます。なるほど、お描きいたしましょう。ご希望の構図や寸法をお申し付けください」と言って、その日のうちに注文を受け、翌日から描き始め、見事に十幅対を完成させた。天下に稀な傑作として、今でも牧野家に伝えられているということだ。(『茶事秘録』より)
棚村肩衝 寛永年間(1624〜1644年)の頃、狩野探幽が所持し、極めて大切に秘蔵していた。ところが、類焼に遭った際に紛失してしまい、非常に残念に思って色々と探していたところ、その後再び手に入った。これによって「都帰り探幽斎」と言い伝えて秘蔵した。後年、松平不昧公のお買い上げとなり、銀500枚ほどと伺っている。昔から金3千両ほどの価値があると言われている。(『雪州宝物伝来書』より)
棚村 もとは探幽の所持。銀500枚と伺っている。価値は金5千両。(『伏見屋忠治良覚書』より)
棚村 伊勢屋次郎右衛門から、600両。(『大崎禄御道具御買上代控』より)
【伝来】
もとは近江の種村某が所持しており、佐久間不干斎、木下宮内少輔を経て、堺の町人某の手に渡ったものを、狩野探幽が金1千4百枚で買い求めたという。こうして探幽が秘蔵していた中、明暦3年の大火に遭い、たまたまこれを持ち出した家来は焼け死んでしまったが、茶入は無事でその傍らに放置されていた。そこを通りかかった京都の飛脚が拾い、京都へ戻った後に某道具商に売り渡した。それを京都所司代の牧野佐渡守親成が思いがけず発見し、再び探幽に返還したという顛末は、雑記に記載されている通りである。そして、松平不昧公がこれを買い取ったのは、伊勢屋次郎右衛門の仲介で、その代金は600両であったという。
【実見記】
大正7年(1918年)5月27日、松江市の松平直亮伯爵家事務所において実物を見学した。
口の作りは厚手で、折り返しはやや浅く、甑(こしき)の際(きわ)に浮き出た筋が1本ある。胴をぐるりと回る沈んだ筋は、くっきりとやや太い。裾より下は鉄色を帯びた土を見せ、底は板起こし(平らな作り)で、すり減っている。全体は飴色の下地に、青白い蛇蝎(だかつ)釉が粉を吹いたようにまばらに掛かっている。正面の釉薬のなだれは、飴色の中に蛇蝎釉が2段になって見事に交わり、底の近くで止まっている。この正面に向かって右手に、雪輪のような形に釉薬が掛かっていない部分(抜け)が2箇所あり、肩の辺りにも小さな抜けがある。内側はすべて土が見えており、やや高い位置にくっきりと轆轤(ろくろ)の目が回り、底の中央で渦状になっている。飴色の上に薄雲のように漂う蛇蝎釉の光沢が極めて美しく、大きさに比べて背が低く、ふっくらとして福々しい姿の茶入である。
【原文】
種村肩衝
漢作 大名物 一名 木下肩衝又都歸り 伯爵 松平直亮氏 藏
名稱
種村一に棚村と云ふ。種、棚、邦訓相近きを以て、互に混訛せし者ならんか。奈良松屋源三郎の松屋日記には「種村肩衝、近江の種村殿所持候故也」とあり。即ち所持者の名なるを知るべし。後木下宮内之を所持せしに依り或は木下肩衝ともいふ。其後狩野探幽の手に入り、明暦三年の大火に際して己に焼失せりと思ひしに、圖らず京都にて之を見出し、再び江戸に持歸りたるを以て、更に都歸りの茶入と呼びたりとぞ。
寸法
高 貳寸七分
胴徑 貳寸八分
まはり 八寸六分
口徑 壹寸六分參厘
底徑 狹き所 壹寸六分 / 廣き所 壹寸六分五厘
甑高 四分
附属物
一 蓋 六枚 各窠
一 蓋箱 桐 白木
木下肩衝 蓋 書付 不昧
一 御物袋 紫縮緬 緒つがり紫
包物 紫羽二重綿入
一 袋 四ツ
本能寺純子 裏 萌黄海氣 / 緒つがり遠州茶
折枝模様縞純子 裏 海氣 / 緒つがり遠州茶
金剛切 裏 紫紋海氣 / 緒つがり天鵞絨
廣東織留 裏 かべちよろ 大扣じ / 緒つがり紫
一 袋箱 二ツ
桐 白木 書付 不昧
木下肩衝 袋
本能寺折枝模様金剛切ノ三ツヲ入ル
桐 白木 書付 不昧
種村肩衝 袋
廣東織留ヲ入ル
一 挽家 黒塗 小口粉溜
袋 紫革 紐御納戸茶
包物 紫羽二重袷
一 内箱 桐 白木
唐物肩衝 書付 狩野探幽
蓋裏に「さかい町人何某より求之」と張紙あり
袋 紫皮 緒つがり茶
一 外箱 桐 白木 煮黒み 錠前附
唐物丸 筆者未詳
包物 茶純子綿入
一 添盆 藤重四方盆 内赤底黒縁青漆笹入
方六寸五分八厘 鏡方五寸八分
袋 芝山純子 裏波に鳥純子 / 緒つがり浅黄
内箱 溜塗 金粉書付 小堀遠州
外箱 杉 白木 墨書付 松平雪川(公弟)
包物 花布 裏御納戸茶羽二重
雜記
棚村肩衝 狩野探幽。
(古今名物類聚)
棚村肩衝 木下肩衝とも云ふ、狩野探幽。
(古名物記)
肩衝 佐久間右衛門尉。
(天正名物記)
田名村肩衝 佐久間甚七所持、關白様ニ有。
(山上宗二之記)
種村肩衝 佐久間甚九郎所持。
(東山御物内別帳)
木下かたつき 狩野探幽。
(玩貨名物記)
種林 異ニ種村トアリ、佐久間甚九郎(又承禎といふ)所持。竪二寸七分、横二寸八分、廻り八寸六分、底一寸七分、口一寸六分、同高四分、地薬濃柿、手形あとに薄柿あり、上薬蛇蝎あらし(茶入圖あり)。
(萬寶全書)
松本肩衝(松屋肩衝)と種村と寸法同前なり。去りながら種村肩衝は、口廣くて悪候也、近江の種村殿所持候故也、佐久間不干所持ありて、今は木下宮内殿に在之か、形は何とも云ひ難き物なり。初心の人は丸壺などゝ云ふ程の事なり、一段ひきくなりしたる物なり、然れども昔より名高き無隠名物の肩衝なり、然るに物數を見ぬ人などのなま知りたる人には、大事の道具見する事はいやなる事なり、肩衝も四つ五つなど見たる人にては、中々何も知れ不申候也、様々形違ひ候ぞ。
(松屋日記)
天正六年正月廿二日朝 佐久間甚九郎殿會
一 鑪に 釣物 自在につるべ
一 床に カタツキ 四方盆に 只天目黒臺 金襴の袋
(津田宗及茶湯日記)
天正六年十月二十八日朝 佐久間甚九郎殿會
宮内法印土産に黄金五枚とハイカツキの天目とせられ候
座敷 宮法印 宗及 茶立時 山上の宗二
一 床 天目臺に 法印土産の天目也
一 鑪に とんぼうの釜 ほそくさりに
一 手の間に手桶置て カタツキ袋に、白地金襴、盆なし。
(津田宗及茶湯日記)
佐久間宗透 従五位下甚九郎諱正勝、號不干齋、右衛門尉信盛之男、父子仕右大臣信長公、以茶事有名、初師宗悟後入紹鴎利休二居士之門、爲其長壽可知焉、按不干有茶名者、利休已前也、後尚就休請益、家藏漢器茶入、稱種村名器也。
(茶人大系圖)
棚村 木の下とも云ふ。狩野探幽所持、雲州公。濃き飴に白なだれ、殘月とは藥ちがふ、板おこし、鼠土、くろめ附属物、茶入圖あり。
(麟鳳龜龍)
唐物種村肩衝 木下とも、都歸りとも云ふ。惣體地黒みたる柿、蛇蝎藥の置形有之、幽にあり、土なまり、口作甚清し、火間三つあり、少々平形なり、少々形わろし、肩に大筋一筋あり、其作甚清し、うら筋の所にはらくと蛇蝎藥有之。
(茶入名物記)
種村 あめ黄藥あり、二筋あり、板おこし、肩にも大き形あり、松屋肩衝の置方の無之様な茶入なり、地藥柿。
(伏見屋手控)
棚村 漢物眞の唐物なり、棚村といふ名物、狩野探幽所持、後に都歸りと銘改、振り紋格別なり。
(名器録)
棚村 漢なり。新田、勢高、不動、玉堂と同時代なり、松屋肩衝と藥立同時代と雖も、時代劣りたり。
(不昧著瀬戸陶器濫觴)
棚村肩衝 都歸りとも云、探幽所持。一體るりいろ出、亦、肩に大筋一すぢ、甑の下にあり、所々細く蛇蝎藥あり、置方薄く、蛇蝎藥あり、ひま三つあり、一つのひまの内に少々蛇蝎藥あり、少し形平に、板起し、捻返し少々大きく、其所甚だよし(附属物の記事あり)。
(慕庵文庫甲第九號)
家光様御代に高直なる茶入は京極安知、金森出雲殿より所望せる代金三千枚の茶入(略)又木の下肩衝と申す茶入は、木下宮内少輔殿より金千四百枚に探幽法印求める、蓋袋は遠州好にて出来たり。
(櫻山一有筆記)
種村肩衝 一名木下肩衝 不干齋所持なり、狩野探幽法印代金壹万兩求之と云ふ。子孫有之丁酉江戸大火にて爲持人道へ捨たるが、此茶入京都へ登る、一條宗貞見出す、銀千貫或人求之由、牧野佐渡守殿へ上る、又探幽方被遣云傳。
(雪間草茶道惑解)
狩野探幽守信は、名譽の畫工なり、茶道も能くされたり、或時大金を出して茶入を求め秘藏しけるに、酉年の大火に神田橋の亭も類焼しける時、かの茶入を家來密に盗出し、京師へ遣りて賣拂ひ、主人へは焼失せしと偽り置きしに、其後茶入を買戻して、銘を都歸りと改めて、猶秘藏せられし、今は非伊掃部頭家に在りとかや。
(明良洪範)
狩野探幽數百金を寄て求め得たる茶入あり、鍾愛すること甚し、茶湯を數寄と雖も唯この茶入一つを以て茶を點す。然るに明暦三年の歳火災に、探幽が宅も燒けたり、其時分其茶入を箱ながら己が首につけて火を避けたり、炎焔甚盛にして、纔に身を以て脱きぬ、其當時其茶入を失ふ、其後は心地忙然と、唯鬱々として暮らしけり、年經て後、禁裏御修覆御繪調ふべきの旨にて、京師へ趣て、或時所司代板倉周防守殿(牧野佐渡の誤)へ呼るゝ事ありて罷出たりしに、防州對面ありて、昔の話の次手に、彼茶入は火事にて紛失のよし如何と尋ねられ候所、さて\/忘れて罷在候ものを、よしなき儀を御尋ねなされ候て、迷惑仕候旨申上る、防州又某も其茶入にて茶湯に逢申候故別して存じ出し候、其方秘藏比類なき事聞及候故尋候旨申聞され候へば、必ず仰出され候儀も御やめ可被下候、心底を取乱し候よし申候其時、防州小姓を呼びて、彼茶入を持來れとあり、則茶入を持參せり、防州手に取りて熟覧し世には似たる物も有るものかな、彼茶入某一度見申候故覺束なき事ながら、近頃似たる物見せ申候よし申され、相渡され候所、探幽手に取りて大に驚き、是は其茶入にて候、是は是はとて其儘絶入候、侍者大に騒ぎ、水など注ぎ、漸くにして生氣ふき出て、再び其器を見て、彌眞の私の茶入にて候、不審千萬なる事に候、世の中にあるべき者にては無之候といふ、防州申され候は、さては某が目も惡しからず候、此茶入は此頃道具屋持參、不慮に其茶器を心付候に付、其方へ遣し度候て求置候、則唯今贈ると御申にて、探幽に之を賜ふ。此時銘を都歸りと名づけたり、此探幽が絶入りたる所、眞の愛と可申候、晋の王羲之が醉筆蘭亭記、一度人間に無之處、唐太宗取出給ひ、其孫僧智永へ見せ給ひし時、智永一見して失聲して悦びけるも、同じ意なり。
(室鳩巣著可觀小説)
明暦三丁酉年正月江戸大火事の時、繪師狩野探幽の秘藏せし棚倉(種村の誤りなれ)といふ茶入を、心の知れたる家人に、隨分大事に持て退けと言付て出せしに、其者燒け死せり、されども茶入は箱ながら其側に捨て有りしを、京より行し飛脚の者通り合せ、拾ひ取り上げて見しに、箱袋の體唯ならず、是は善き物ならんと京へ持歸り、道具屋へ賣り、唐物屋の手に渡り、橘屋宗元と云ふ者買収しが、人々見て是は慥かに名物ならん、若し今度の大火事に公儀の御道具の紛れ出しも計り難し、後日の御咎めも心元なし、兎に角此旨を申し達し置き然るべしとて、即二條へ罷出申達せしに、其頃の所司代牧野佐渡守親成殿、茶道を好み其上目利もよかりしかば、先一見せんとありし故、宗元持參せしに、一目見られ是は先年江戸にて狩野探幽が許へ茶に行きし時、彼れが秘藏とて出せし棚倉ならん、其時の話出しに京の者が取持て手に入りしと言ふが、其取次の者あらんかとて、京中穿鑿ありしに、一條の宗貞と云ふ者、其取次は私にて御座候、即茶入の形寸法等も寫し置て御座候由申出る、乃ち見せられしに、まがひもなき棚倉の由申しぬ、橘屋へ尋ねられ候へば、代銀三百貫目に求めし由申しぬ、乃ち其旨委細を探幽が方へ知らせられしかば、大に喜び、弟子に銀三百貫目持せ差し登し、親成の世話にて再び探幽が方へ戻りし故、親成「都歸り」と名を付けられ候、後親成江戸へ下向ありし時探幽伺候し厚く禮を申し、此報謝には何にても御望の繪を私筆を揮ひ差上度き由申しぬ、左あらば富士山を十幅對に書て呉れよと有りしに、是れは古來より例も御座なく、十品には書き分け難く候はんと申しければ、親成尤もなり、好み様も不功者なる言分、又其方も未だ妙所に至らぬと見えたり、古への名人は中々書兼ねまじき事と有し、そこにで探幽暫く目を閉て思案し、扨々早速御請け申あげず口惜しく存じ奉り候、成程書て奉り候はん間、御望の恰好寸法仰下され候へとて、即日是を承はり、翌日より書きかゝり、十幅對出來しぬ、天下に稀なる物とて、今に牧野家に傳へしとなり。
(茶事秘録)
棚村肩衝 寛永の頃狩野探幽所持、至て秘藏す、然る所類焼の節紛失に及び甚だ殘念に存候、種々心懸居候所其後又々手に入り、依之都歸り探幽齋と申傳へ秘藏す、後年御買上に相成、銀五百枚位と伺上候、位金三千兩位古來仕候由。
(雪州寶物傳來書)
棚村 もと探幽所持、銀五百枚と伺上候、位金五千兩。
(伏見屋忠治良覺書)
棚村 伊勢屋次郎右衛門、六百兩。
(大崎祿御道具御買上代控)
傳來
元と近江の人種村某所持にして、佐久間不干齋、木下宮内少輔を經て堺の町人某の手に渡りしを、狩野探幽金千四百枚にて買求めたりと云ふ。斯くて探幽秘藏中、明暦三年の大火に遭ひ、偶ま之を持出したる家僕は燒死したれども、茶入は無事にして其傍に捨て置かれしかば、通り掛りたる京の飛脚が拾ひ取り、歸洛の後或る道具商に賣渡せしを、京都所司代牧野佐渡守親成が圖らず發見して、再び探幽に返附せし事、雜記所載の如し。而して松平不昧公が之を買取りしは、伊勢次郎右衛門の取次にて其代金六百兩なりしと云ふ。
實見記
大正七年五月二十七日松江市松平直亮伯家事務所に於て實見す。
口作厚手にて括り返し稍淺く、甑際に浮筋一本あり、胴を繞れる沈筋はキツカリとして稍太く、裾以下鐵氣色の土を見せ底板起しにて磨り減しあり、總體飴色地に青白き蛇蝎釉が粉を吹きたるが如くムラ\/と掛り、置形釉ナダレは飴色の中に蛇蝎釉二段美事に交りて、底近くに至りて止まる。此置形に向つて右手に雪輪状のヌケ二ケ所あり、肩の邊にも亦小さきヌケあり、内部は總て素土にて、稍高目にキツパリと轆轤廻り、底中央に至りて渦状を爲す。飴色の上に薄雲の如く漂ひたる蛇蝎色の光澤極めて麗はしく、大きさに割合はして丈低く、允々として福相なる茶入なり。


