鉛化合物を主成分とする釉薬で低火度釉であります。
鉛釉の起原は明らかでないが古くは初期のアアソリアにこれがあるようで、中世になってペルシアやトルコで盛んに用いられました。
ヨーロッパでは八世紀頃イタリアで用いられ、以来その使用は絶えることなく、現在は他のどのような釉にもまして大変広範囲に用いられています。
東洋では中国漢代の緑釉・黄褐釉、唐代の三彩釉がいずれも珪酸鉛の軟釉に銅・鉄その他の彩料を加えたものとみられます。
そのうち三彩釉の技術は天平年代にわが国に伝来し、奈良正倉院の軟陶および瑠璃玉などに残っています。
わが国の鉛釉は平安大極殿の碧料瓦などを除くほかは長くその後の形跡を絶っていましたが、後代になって楽焼・七宝などが再伝しビードロの軟ガラスと共に鉛釉質の応用は復興されました。
オランダ焼・交趾焼・布志名焼・淡路焼などいずれも鉛質軟釉が用いられ、特に上絵具の熔媒には同様に鉛ガラスが採用されてきました。
それらの軟釉または熔媒には鉛ガラスの白玉を基本とし、これに唐ノ土(塩基性炭酸鉛)日ノ岡土(珪酸)を配しました。
(Kerl『Handbuch der gesammten Thonwaaren-industriej『匋雅集』『正倉院の陶甕』『大日本窯業協会雑誌』六ノ六七)