南川原窯 なんがわらがま

marusankakusikaku
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鶴田 純久の章 お話

南川原は旧佐賀鍋島領外山の一つ。
方言でナングラーナンゴラといいます。
古書に種々の説があるが南高麗の転誂と思われます。
昔は磁器を高麗と呼び窯地を高麗山と呼んでいます。
内田や大村の古窯址に今日でも高麗の字を用いた所があります。
南川原は現在佐賀県西松浦郡有田町曲川に属し有田駅の西南約一キロの所で、西南に長崎県境の山を仰ぎ、東に有田町の丘陵を控えた間の北向きの谷であります。
昔は上下両村に分かれ、酒井田柿右衛門をはじめ精巧な製陶家を輩出した地で、平戸南北部系の順ノ元・柳ノ元・原明・清六ノ辻・小溝・小物成などの窯群に囲まれ、また村内にも天神の森その他に磁器以前の古窯址を有します。
その陶器に属する食器などの中に、京都あたりの手法と思われる角形や長方形に形をつくって箆痕を残したものがあるようで、他窯と趣を異にします。
もともと磁器以後の有田が金が江・深海・百田・岩尾ら韓人系であるのに対し、南川原は柿右衛門をはじめ日本人系統で。
1637年(寛永一四)閏3月15日に窯焼の人整理が行われた時、韓人系は保護されましたが、この整理の主旨は山林の保護にあるようで、整理後は下手の安物より精巧なものに転換するよう奨励され、日本人でも特別な者は保護され、柿右衛門もその中の一人でありました。
この時以来ますます精巧の度を増し内山を凌ぐに至ったことは、わが国の陶工の誇りといえます。
のちになってこの地に金ヶ江姓があるのは、金ヶ江の子孫の総太夫が零落して柿右衛門の職工となったことによる。
初代柿右衛門と同時代に中野徳兵衛・徳永常光などの名工かおり、降って文化(1804-18)頃には上南川原の樋口利三郎父子があるようで、名工が続出しましたが、現在この地の製品で精巧なものは銘の有無に関係なくすべて柿右衛門であるとします。
このことは柿右衛門があまりにも名高いためと高価に売るための道具屋特有の悪策であります。
磁器は抹茶器とは異なり食器などはI揃いが二十客ですので、二、三人ではつくることができず、主人が職工の中心となり、相応の職工を当ててこれを完成するのであります。
興廃が激しかったため、柿右衛門以外の陶工達の記録・家系が伝わっていないのは遺憾であります。
寛文年間(1661-73)鍋島家の御道具山がこの地に移転し、延宝(1673-81)にはいっそう僻遠の大川内(伊万里市大川内町)に移りました。
1876年(明治九)3月に制定された陶業盟約に見えるこの地の陶家は、樋口為吉・藤信助・立林兼助・樋口太平・北藤伊与吉で、柿右衛門の名は見えないようです。
十代渋之助は当時休業していたのでしょう。
維新前の窯焼には下南川原の館林兵太夫の名があります。
彼は焼き上がった器を窯出しするとすぐこれを長持ちに納めて錠をおろし誰にも見せなかったといいます。
せっかく工夫を凝らしてつくったものを模造されるのを恐れたのでしょうか。
兵太夫は1836年(天保七)12月没。
その嗣子は有田の辻喜平次の次男辰十で、彼もまた名陶工でありました。
その他に館林菊次郎かおり、1851年(嘉永四)3月没、四十三歳。
概して上南川原は大鉢類を得意とし、下南川原は食器類の小形のものを多く製造しました。
そのほか下南川原で名のある工人に館林森太郎かおり、窯焼で花烏画の名人でありましたが、1850年正月、二十八歳で没しました。
金ヶ江熊五郎は山水画の名人で窯焼をも学び、1854年(安政元)11月没、四十九歳。
富永勘九郎は画工で花烏を得意とし、1874年(明治七)8月、三十九歳で没。
‘小西喜平太は画工で山水・大物がうまく、1876年(同九)8月、四十三歳で没しました。
溝上甚九郎は画工で大物・花烏を得意とし、1887年(同二〇)1月、五十四歳で没しました。
金ヶ江八百吉は成形工で小間物づくりの名人でありましたが、1900年(同三三)7月、五十八歳で没しました。
小藤伊与吉は陶車細工人で柿右衛門の職工でありましたが、同年7月、七十三歳で没しました。
南川原は陶器にとっても古い製造地で、磁器となってからは精巧品が主体となった土地でありますが、近代になっては1920年(大正九)の好況時代でも年産額わずかに五万五千円にすぎず、戸数も従って減少し、昭和の初めには上南川原二十戸中窯焼は一戸もなく、下南川原四十戸中窯焼は酒井田柿右衛門以外に小西忠吾がいただけで、昔の繁栄は夢のようでありました。
(寺内信一)

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