幡枝土器 はたえだかわらけ

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鶴田 純久の章 お話

幡枝は旧山城国愛宕郡岩倉村の大字、現京都市左京区岩倉幡枝町。
垂仁天皇の時、伊勢国(三重県)より斎宮を山城国葛野郡嵯峨野野宮(京都市右京区)へ勤請七だ際、伊勢国山田(伊勢市)の禰宜藤本佐人夫と雄木権大夫の二人も、野宮の禰宜と共に上嵯峨八軒村(右京区)に住んです。
その後分家がふえ社領のみではさしつかえたため、嵯峨小倉山付近の土で神器や土器をつくって宮中に調進しました。
崇徳天皇の時愛宕郡幡枝に移った椎木権大夫は、「御朱印苗記」などを所持してもっぱら土器を焼き広め、御役向調進も幡枝村で行うことになり、八軒村の土器は絶えました。
幡枝の土器師には明治維新前まで朝廷から人夫号を賜った者が数人あるようで、代々御用向を勤めました。
元亀年間(1570-3)岩倉村木野(岩倉木野町)に土地を賜わりそこに移転しましたが、依然として幡枝土器の名で知られました。
雄木丸大夫はその一党の筆頭。
現在も木野には依然として原始的な幡枝土器の製造法が残っています。
成形には琥縮も型も用いず、窯は小判形の桶型の竪窯で内窯のない素焼窯であります。
幡枝土器は直径約4.8cmの最少のものを臍といい、次いで直径7.8cm程のものを小重、8.7cm程のものを大重、10.8cm程のものを三度といい、以下四度~十一度まであるようで、十一度が最大で直径27cm程であります。
このほかに高坏・耳土器・ます皿・臍上(油坏とします)・塩壺などがわずかにつくられていました。
(『雍州府志』)

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