山城国伏見(京都市伏見区)の土製玩具。
わが国の土偶産地の中心的存在でありましたが、その発祥についてはなんら記録が残っていないようです。
一説に垂仁天皇の時野見宿禰の奏上によって殉死が禁じられ代わりに埴輪を用いた時、宿禰が呼び寄せた出雲の上部工人が居住したのが伏見の地で、伏見人形は埴輪に始まるといいます。
また711年(和銅四)2月稲荷神が山城の峰に出現しのち伏見稲荷として祠られましたが、稲荷神は出現の時鶴に化し稲の実をくわえていたことから、土器またはきびや粟などを参詣の土産とし、これから伏見人形が起こったとする説もあります。
1615年(元和元)鵬幸右衛門がこの地に来て土偶をつくったと伝えられ。
一般にこれを伏見土偶の創始者としますが、実はその存在すら疑わしいといわれます。
要するにこの地に古くから土器があったことは明らかですが、土偶の創始期についてはまだ確証が得られていないようです。
しかし元禄(1688-1704)に至って確実な伏見土偶の記録が現れ、文化・文政(1804-30)の頃最盛期でありました。
そして優作といえるものは概して安政(1854-60)以前に属し、高価な岩絵具を用いたもの、裏面着彩のもの、巧妙な捻りなど杵当時の製作であります。
種類は初期の頃はでんぼ・柚でんぼ・つぽっぽ・狐・布袋・西行・おやま・牛・土鈴その他で、のちに友引人形・成田屋人形・相撲・馬・饅頭喰い・ちょろ・おぼこなど非常に多く数百種を数えます。
この製作に従事した者は幕末より明治初年にかけ伏見街道に当たる深草を中心として五十軒余りありましたが、次第に不振となり、昭和の初めには約十軒の窯元を残すのみとなりました。
(『本朝陶器孜証』『工芸志料』『工芸鏡』『日本陶磁器史論』『日本郷土玩具』『伏見人形』)※いかるがこうえもん