ぼてぼて茶碗 ぼてぼてちゃわん

Picture of 鶴田 純久の章 お話
鶴田 純久の章 お話
ぼてぼて茶碗
ぼてぼて茶碗

ぼてぼて茶はまた桶茶といい、江戸時代以来出雲国(島根県)一円と伯暫国(烏取県)の西部地・方、石見国(島根県)の東部地方の一般民家で行われた簡素な茶式であります。
茶の中に粥のみを入れたり、また飯と種々の副食物を入れて喫するのであります。
これに用いた茶碗はもと伊万里の藍絵ものを用いたらしく、のちぼてぽて茶が普及すると出雲全部の陶器窯・磁器窯もこれを製造し、伯音の法勝寺窯、石見の温泉津窯もこれをつくりました。
とりわけ出雲の布志名・楽山・八幡の三窯はその代表的なものであります。
布志名のものは口が大きく胴が締まり丈は高く、見込みはやや凹み、釉は青釉と飴釉でその青は緑青で明るく豊かであります。
楽山のものは丈がやや低く胴張り気味で、見込み中央が少し盛り上がり、高台はいささか弱く、釉は青と飴と白とて、ことに青は澄みわたりやや冷ややかな感がします。
八幡のものは口が締まり、胴が著しく張り、丈は最も低く、見込みは平らで、高台は堅い感がします。
釉は青と白とて、ことに青は酸化銅で釉溜まりができ易く、色は陰欝であります。
布志名は1877年(明治一〇)に組合窯を廃止してから火度が低くなり、青の製品が出なくなってほとんど黄釉のみを出し、形も非常に劣るようになりました。
これに反し八幡はいつのまにか美しくなり、高台もしっかりとして、出雲特有の青呉洲をつくってきました。
ぼてぼて茶碗は出雲では呉須手茶碗または呉洲茶碗あるいは単に呉洲といいます。
黄や飴や青や白のこれらを呉洲と称えるのはおそらく最初伊万里の藍絵茶碗を用いたのによるのであるでしょう。
ただしぼてぼて茶の風習は明治末期になり次第に廃れ、ぼてぼて茶碗もガラス器に駆逐されてその後はごく少数が焼かれるのみとなりました。
詳しくは『島根評論』1930年(昭和五)6月号、並びに『工芸』十八号参照のこと。

前に戻る
Facebook
Twitter
Email