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鶴田 純久の章 お話

みのやき(美濃焼)

美濃燒草文徳利
美濃燒草文徳利

美濃国(岐阜県)の東南部(かつての土岐・可児恵那の三郡)より産出する陶磁器を総称して美濃焼といいます。その古窯については後段に掲げるとし現在焼成している主なものを挙げれば次の通り。多治見市之倉・小名田・根本(以上多治見市)、土岐津・泉・妻木・下石・駄知・肥田・曾木(以上土岐市)、瑞浪・稲津・陶(以上瑞浪市)、鶴岡・吉田・明知(以上恵那郡)、笠原(土岐郡)。
このほかに不破郡の温故焼、稲葉郡の金華山焼、養老郡養老焼・素心焼、本巣郡の船木山焼などがありましたが、いずれも主流以外で美濃焼には含みません。
【名称】元来東濃三郡の地は尾張および三河(共愛知県)に接し、その地質・原料ともに瀬戸地方に近似し、美濃や尾張の陶工は古くから自由に移動し、実際的には国・県による別なくむしろ瀬戸と東濃三郡は陶業上同一地域の関係にありました。
ことに1567年(永禄一〇)に織田信長が尾張から侵入して美濃を兼併しますと、政治的背景を得瀬戸工で三郡に流入する者がますます多くなり、この地の陶業の基礎を決定しました。当時の所製には非常に優良なものがありましたが、需要者はこれ瀬戸焼と区別して美濃焼と称することをせず、等しく瀬戸焼と総称したり、美濃瀬戸または美濃の瀬戸と呼びました。1672年(寛文一二)刊『茶器弁玉集』にも、妻木窯・大萱窯・鵤窯・大平窯など、美濃の窯場はみな瀬戸窯所之次第の条下に列記しています。江戸時代になり笠松郡代が置かれ三郡は共に幕府の直轄地となりました。しかし物産についてはすべて尾張藩の規制を受け、特に文化・文政(1804~30)より磁器製造が盛んになりますと、尾張藩は美濃産の陶磁器を名古屋の十二蔵元商に納めさせ、販売に当たっては瀬戸焼の名を使美濃焼の名を一切使わず、極めて厳重な産業統制を実施しました。しかし明治維新になり廃藩が確定しますと、ここに美濃焼は永い羈絆より脱して初めその本来の美濃焼の名を称えられるようになりました。なおむかし美濃焼は土岐郡多治見に集散したので多治見焼と称されたこともありました。
【沿革概要】『延喜式』に美濃は陶器の調貢国としてあげられ、またその神祇式、斎宮寮年料供物のうちに「坩一口、陶三十口、臼二口、盤十口、已上は美濃国これに充つ。池由加一口由加四口、西一口、瓶一口、罐二口、叩瓮四口、已上は美濃国これに充つ。陶坩、叩瓮四口、陶手洗一口、陶?二口、盤二口、巳上は美濃国」とあります。
また「陶器六百九十六口美濃」とも記しています。
美濃国内で右の陶器を焼成した地はもとより確定し難いですけれど、およそ旧各務郡須衛村(現稲葉郡各務村大字須衛)地方と認められます。須衛はのちこれら須恵器の製品より出て山小坏(半瓷器)焼造しましたが、須衛の技術はのち尾張国春日井郡末(愛知県小牧市末)あるいは唐山地方に伝播し、それより同国瀬戸に移り、瀬戸より逆流して美濃の東南部土岐・可児の諸郡に入り、次いで発展して瓷器の時代に移ったものらしい(赤塚幹也『陶器製作史概説』)。このように美濃焼は早くから瀬戸と直接的に関連して発達して来ましたが、両者の交渉は織田信長時代になって最も明らかとなり、文献にも二、三見えます。すなわち1567年(永禄一〇)信長が美濃を兼併して以来、瀬戸工でその新鋭の技術を提げて美濃で新窯を築く者が続出しました。当時茶式の盛行に応じて天目釉・黄瀬戸・瀬戸黒・志野・織部など種々の製品を出しました。美濃に残る写本には次のような信長の制札の文がみえます。
一於郡尻邑山木に郷を開き竈相立可燒事並竈木自由に伐取可申候事
一、田畑を起し自由を達し可申事並に年貢諸役不及相務候事
一、家近き於場所山林竹木相立可申事右之条々違乱之輩不可有之候也
天正元癸酉(1573)三月奉行
また久尻清安寺の「万治元年戊戌(1658)正月十五日」の日付のある『由来記』には「天正二甲戌年春口尾州瀬戸村加藤与三兵衛と申者男子四人□□右之口口連此地に来て陶焼場所見立成就致度既に当時裏山の陶取立焼初め云々」とあり、貞享三丙寅年(1686)とある『瀬戸大竈焼物並唐津竈取立之来由書』瀬戸竈所之次第の条のうちには次のようにみえます。
一、美濃国可児郡大萱竈源十郎焼上作天正五年此地ニ来テ焼
一、郡尻竈天正九辛巳之春加藤与三兵衛来テ焼
一、大平竈天正十一癸未之春伊右衛門来テ焼
一、笠原竈天正十四年丙戌之春源十郎大萱ヨリ焼
以上諸文献に徴すると信長の美濃入国より六年以内に瀬戸の工人は着々と美濃に移動して来ました。以来その陶業は瀬戸工の繁衍と共に隆昌を極めました。
また注意すべきことは、加藤与三兵衛景光の長子四郎右衛門景延(1632、寛永九年二月二日没)九州唐津に赴いて実施した登窯の法、および同人が製作した白釉手すなわち志野焼の初現です。唐津窯の伝法はいわゆる織部焼を出現させ、また志野焼は仮に景延以前の創起としても、少なおおざまちくとも景延はこれを製作した最初の一人であることは間違いありません。清安寺の『由来記』によれば、景延は正親町天皇(1557~86在位)に白釉手の茶碗を献上し、これに筑後之朝日手焼の名を賜わりました。のち1587年(天正一五)後陽成天皇(1587~1611在位)にまたやきものを献上したとあります。その筑後守宣任口宣案は次の通り。
上卿中山大納言
慶長二年七月五日宣旨
藤原景延
宣任筑後守
蔵人頭右中弁藤原光豊奉
江戸時代に入り瀬戸焼の上級茶事用陶器の製造が衰えますと、この地の製品も実用粗品を専門とするようになりました。元禄年間(1688~1704)笠松郡代において窯株の制を設け多治見・笠原・久尻・下石にて二十四窯と定められましたが、その後妻木・駄知を加えて三十五窯となりました。文化(1804~18)初年になり笠原村滝呂や多治見などで製磁業を起こす者がありました。たぶん瀬戸における製磁創業の影響であって、以後磁器の製造は各村に普及して大いに盛大となりました。しかしその製品を瀬戸物と称したのは既述の通り。文政年間(1818~30)多治見の加藤円治が美濃窯元取締役となりますと、尾張藩の絆を脱して美濃焼の名で全国に販売することを計画し、たびたび笠松郡代に請願したけれどもその志を遂げることはできませんでした。その後幾多の人の努力を経て明治の変革となり、ここに初めて窯の制限は解かれ製造・販売ともに自由となり、1877年(明治一〇)頃より漸次その産額を増加しました。特に1887年には型絵が発明されました。翌年には銅版絵付の特許を得た者があり、その産額は一層増加しました。
文化・文政以降の美濃焼はほとんど磁器専門の観を呈し、もっぱら飲食用器物や家具および装飾品などの実用品を主とします。1909年(明治四二)製造戸数一千二十八戸、総産額百四十七万五千余円。一九三三(昭和八)年度岐阜県総製造場数一千三百二十八、総産額一千二百二十万二千円。一九六五(同四〇)年度の美濃焼の年産額は七億三千万円、メーカー数九十一。
【美濃窯の移動】美濃の古窯(安土・桃山時代)の移動とその製作品種を概観するために加藤唐九郎著『黄瀬戸』より次の記事を引用します。
可児郡久々利村字大萱(おほかや)字大平(おほひら)二字と土岐郡内の泉町字五斗蒔(ごとまき)字久尻(くじり)の清安寺付近即ち土岐川の西部にして浅間山(せんげんさん)の北側より東へ細長くこの一帯の地に散在せる古窯群は、瀬戸史上特筆大書すべき彼の黄金時代の遺跡であらねばなりません。久々利の柿下から東へ尾根伝いする所先づ第一に浅間山の西の中腹に「うばがふところ」があります。瀬戸の「祖母懐」と何かの廻り合わせの縁故がありはしまいか、さうして美濃での佗び茶系の陶窯はここが封切ではなかったでしょうか、瀬戸黒、所謂引出し黒の佗び茶碗で、土は瀬戸の祖母懐の茶人そっくり其儘、瀬戸黒茶碗の小原木(おはらぎ)風の破片が露はれてきます。こゝに注意しなければならないことは、あやめ手黄瀬戸の芽生があること、幼稚な線刻紋様に銅緑の胆を落とした器物が瀬戸黒茶碗と一緒に焼かれてるることです。「うばがふところ」から東へ谷を渡って尾根伝ひして左にそれると北の谷間に大七戸の農人部落を見下します。とに牟田洞(むたがほら)の窯と、窯下窯とが小渓を挟んで東西に呼応してゐる、此両古窯は略同時代かと思はれ各各特長を有し窯下窯は黄瀬戸、瀬戸黒、志野等が出土しますが、其中でも黄瀬戸はあやめ手の本格のもの最も優良なものが多量に焼かれ、牟田洞の窯は窯下窯と同種類のものですが、黄瀬戸は出土しても窯下の如く優良なものではなく量も非常に少いのに反して志野の量が最も多くまた優良です。要するに窯下はあやめ手黄瀬戸の代表窯であり、牟田の窯は志野の代表窯です。この両窯からまた尾根を東へ大平に至らんとする途中に中窯があります。中窯といふ名は後世大萱と大平との部落人の間に呼び交わされた名で、当時の名ではないかも知れません。この窯では志野が最も多く焼かれてゐるが窯下や牟田ほど優良ではない、黄瀬戸も窯下に似たものが出土したが彼程の良さはありませんでした。中窯から尾根伝ひの道は東へ大平谷の部落に下る、こゝには窯跡が密集し山林の中に屋敷の跡の石垣も其のまゝに数ヶ所残存して、さながら大平窯全盛の跡を物語るものであるがこれがため却って初期の状態を知るに困難を感ずる次第です。故に表面にあるものは後期のものであってかに加藤清光氏の家の東の北向の崖の中に中窯と同様かと思はれる陶片が発掘せられその中に黄瀬戸もあったが中窯と同程度で感心が出来かねました。しかし此の窯跡の発掘は未だ充分に行はれていないから確たる事は云へありません。大平から東へ五斗蒔平(ごとまきだいら)の部落に至らうとする途中、北の高い山の峰に古窯の一群があって高根窯と呼んでゐる。此の古窯は最も志野を大量に焼いてはいるが胆礬のある黄瀬戸を焼いた形跡は稀薄です。高根から東へ谷を渡り又は尾根を伝って久尻に出ると清安寺の東の小さな丘のある処を菖蒲窯又は隠居山と呼ぶ此処には志野はあるが黄瀬戸はいよいよありません。清安寺の付近は窯跡が多いが其中にも清安寺前の小川に添った藪の中に元屋敷窯があって優良な破片が露はれる、今まで見て来た所の大萱、大平、高根等の窯とは調子の異るものあることに気が付く、白い肌の志野と黒い肌の鼠志野とは窯下・牟田洞・中窯・大平・高根・菖蒲・元屋敷と何処までも同様のものが焼かれてるるが、志野の天目茶碗は窯下・牟田・中窯でなくなり、志野の開き高台の茶碗は窯下・牟田から高根でなくなってゐた。それよりも、うば・窯下・牟田・中窯・高根までは瀬戸黒茶碗の真黒であったものが、清安寺付近では白い間取りが出来て其処に文様が描かれてある様になってゐる。さうしてなほ考へさせられることはこれまでの窯が皆山の頂にあったに引かへて、清安寺付近の窯は山裾の田圃の近くで里の中に或は其付近になってゐる事です。又この窯に限って瀬戸黒の茶碗に白い間取りが加へられてゐる、此の瀬戸黒茶碗に間取りのあるものを焼いた窯からは必ず銅緑釉が器物の一部分或は大部分に塗り、其の銅緑釉を施さない部分は鬼板岩の絵具で文様を描いて白釉を施してゐる、これは織部青であって引出黒茶碗に白い間取りのあるものが織部黒であることに初めて気がつきました。また瀬戸黒を焼いた窯は単室の窖窯で、織部を焼いたこの里の窯は連房式登窯に突如とし変化してゐることを確めた。瀬戸黒を焼いた山の二人は「うば」から窯下・牟田・高根・久尻と尾根伝ひに陶土と薪材とを追求めて東へ東へと移動した結果は終に久尻で心機一転して、里の工人に帰化して半工半農の生活を営み始めると共に燃料の経済的な連房式登窯を築くと共に製品の改良を行って織部を焼いたのではないでしょうか。織部の窯は今度は西へ西へと逆襲を始めた、大平に移っ大萱の弥七田窯へと渡った、なお進軍して姫にまで及んだ、弥七田の窯では織部黒に山路茶碗が始まり、赤楽絵具を発明しました。また大平は黄瀬戸や志野の窯が尾根伝ひに山の嶺ばかりを東へ移る時と連房式の織部の窯と進化して谷間の里を西へ帰える時と両方が此処で交叉して焼かれてゐるのであるらしいです。そして、あやめ手の黄瀬戸は「うばがふところ」に始められて、窯下に最も発達し牟田・中窯にと量に於て次第に減少すると共に質に於いても拙劣となりつゝある、然し大平は好いものが少しは焼かれてゐるやうだ。しかも高根に於て僅少となり清安寺付近に於て之を見なくなると同時に線刻文様を施したあやめ手黄瀬戸と同手法によるものに、器物全体に(無論高台は地質を露す)銅緑を施した織部青に変化してゐることに気がつきます。黄瀬戸から志野へ志野から織部へと移り変って、うば・窯下・牟田・中窯・高根を経て久尻に出で、久尻から北へは大富へ又西へは勝大平に、大萱の弥七田にと小さい窯業文化の流れ可児郡浅間山の北谷を西より東へ、東より北へまた転じて東より西へと流動しつ変化しつゝあ事実を古窯跡の発掘片は物語るのです。久尻の加藤筑後守景延が唐津の浪士森善右衛門に導かれて唐津の窯式を学んだといふ肥前小窯は登窯であって、それより以前の瀬戸大窯は単室の半窖窯であり山から山へと移動する性質を持つものであったこと、登窯の最初に織部を焼出してゐるこ古志野と古黄瀬戸とは瀬戸大窯で焼かれてゐること、織部と登窯と陶工の半農生活とは同時に始められ、其開祖が筑後守景延であり場所が久尻元屋敷であったと稍々見当がつきかけてきます。
そして式にも山の窯と里の窯と、その中間にある里に近い山の窯と三種類の別が瀬戸の古窯の中にあること、又その山の窯では瓷器手の黄瀬戸即ち彼の藤四郎焼の茶碗が焼かれ、里の窯では織部が焼かれ、里に近い山の窯ではあやめ手黄瀬戸と瀬戸黒と志野とが焼かれてゐることが解ります。そし黄瀬戸は「うば」に懐胎して窯下に最も発達し、牟田・中窯・大平に移って全く亡びてゐる。
【美濃の古窯出土品種】(『陶磁』八巻二号の記事によります)
土岐郡(土岐市)泉町久尻
高根窯、瀬戸黒・絵唐津風・志野(練上・赤)
勝負窯、瀬戸黒・志野・織部(最優秀ノモノ)
元屋敷窯、グイ呑手黄瀬戸・アヤメ手黄瀬戸・天目釉・瀬戸黒・美濃古唐津釉・志野・織部(最優秀ノモノ)
元屋敷東方ノ藪、瀬戸黒・志野
元屋敷東部、瀬戸黒・志野
竈ヶ根、織部(最優秀ノモノ)
清安寺西、織部(末期トイヘドモ精巧)
五斗蒔八幡窯、織部(末期トイヘドモ精巧)
土岐郡(土岐市)泉町大富
大富窯南部・西部、瀬戸黒・志野・織部(末期ノモノ)
土岐郡(土岐市)泉町定林寺
定林寺窯、瀬戸黒・志野
堂園川窯、瀬戸黒・志野
土岐郡(土岐市)妻木町上郷
窯下窯、瀬戸黒・志野
土岐郡(土岐市)笠原町竈区(窯)
稲荷窯、織部(末期下手物へノ過渡期)
念仏窯、織部(末期下手物へノ過渡期)
西窯、織部(末期下手物へノ過渡期)
土岐郡曽木村(土岐市曽木町)
郷之木窯、志野(日用雑器)
恵那郡(瑞浪市)陶町大川
西窯、志野(日用雑器)
恵那郡(瑞浪市)陶町水上
向窯、白天目・志野(日用雑器)
恵那郡(瑞浪市)陶町猿爪
竈ヶ洞窯、志野(日用雑器)
可児郡久々利村(可児町久々利)浅間山麓
竈ヶ根窯、グイ呑手黄瀬戸・アヤメ手黄瀬戸・天目釉・瀬戸黒・美濃古唐津釉
可児郡久々利村(可児町久々利)大萓
窯下窯、グイ呑手黄瀬戸・アヤメ手黄瀬戸・天目釉・瀬戸黒・美濃古唐津釉・志野(無地・絵・鼠・練上)
牟田洞窯、グイ?手黄瀬戸・アヤメ手黄瀬戸・天目釉・瀬戸黒・美濃古唐津・志野(無地・絵・鼠)
中窯、グイ?手黄瀬戸・アヤメ手黄瀬戸・天目釉・瀬戸黒・美濃古唐津・志野(紅・練上手)
弥七田窯、織部(薄作り技巧ニ富ム)
可児郡久々利村(可児町久々利)大平
由右衛門窯、グイ呑手黄瀬戸・アヤメ手黄瀬戸・天目釉・瀬戸黒・美濃古唐津・志野(無地・絵・鼠・練上)
清太夫窯、織部(元屋敷窯等ニツグ優秀品)
可児郡姫路村(多治見市姫町)
織部(末期下手物へ過渡期)
(『美濃名細記』『工芸志料』『府県陶器沿革陶工伝「統誌』『岐阜県地誌』『美濃陶器誌』『岐阜県産業史』『日本近世窯業史』『大成陶誌』『をはりの花』『日本陶瓷史』『黄瀬戸』『陶磁』八ノ二『陶器講座』六)※せとやき

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