京都某院の寺侍。
嘉永年中(1848-54)実弟と共に近江国(滋賀県)彦根に来て藩窯湖東焼の素地を用いて赤絵焼付に従事しました。
また書画・俳偕などを嗜み、その錦手・錦欄手は繊巧細緻なことで有名でありました。
酒盃・建水・筆筒・水注・墨台・水指・急須などの妙器が今に遺っています。
「湖東鳴鳳」あるいは「鳴鳳」を銘としました。
安政(1854-60)初年事情があって彦根を去り伊勢国(三重県)に赴いました。
居住は三、四年にすぎませんでしたが、その前後ともいずれかの地で陶業に従事したと推定されます。
それゆえ鳴鳳の作で湖東焼の素地でないものもあるはずであります。
(『湖東焼之研究』)めいろ(明炉)『陶説』『景徳鎮陶録』によりますと、わが国の錦窯に相当する上絵付窯を焼炉といい、これに明炉・暗炉の二種があります。
後者は小器の彩画を焼くやや軽便な装置であって、前者は大器用であります。
めいわん(若碗)茶を喫する碗。
めおとどくり(女夫徳利)二本の徳利を胴でつなぎ合わせ、注口は片方だけ開いているものです。
その一方から酒は双方に満たされる仕組みになっています。
これの進化したものに、双方の徳利を離して上下を樋でつなぎ、中の酒はその樋を伝わって往来するものがあります。
めがわら(牝瓦)凹面を上方に向けて葺く瓦すなわち平瓦をいいます。
本瓦葺の平瓦がその一例であって、その場合の丸瓦が牡瓦に当たるものであります。
756年(天平勝宝八)の古文書には女瓦の字を当てています。
※おがわらめきき(目利)茶の湯における目利の語は道具の鑑別を意味するものと、新しい価値発見を意味するものとの二つがあるようで、後者は利休の佗び茶道への転換期に最も尊ばれ、『山上宗二記』その他古茶書をみても目利・作意の語は茶湯者の必須条件とされています。
後世茶の湯の定型化と道具の商品化と共に目利の語はもっぱら鑑別の意味に重点が置かれ、道具の類別と約束ごとが秘伝のような形となり、いわゆる「目利書」が茶入と道具商の間に行われました。
『極秘目利書』『茶器目利書』『名物目利聞書』などがそれであります。
メグキ→くき(茎)