福岡県八女市忠見地区の丘陵部に所在する須恵器窯址群。
古窯址群のある八女丘陵は八女市の北界を東西に長く走り、丘陵上には筑紫国造磐井の墓といわれる岩戸山古墳をはじめ大小の古墳が群在し、九州でも屈指の古墳群地帯となっています。
八女古窯址群は、三助山支群・管ノ谷支群・塚ノ谷支群・牛焼谷支群・はすわ支群の五支群に分かれ、各支群はそれぞれ数基から十数基の窯跡によって構成されています。
窯跡は標高90mから130mまでの丘陵斜面に構築されていますが、窯体のヘースは主として絹雲母片岩の岩盤であります。
窯体の構造は須恵器窯に通有の宿窯で、全長10mを越えるものと、全長5-6mの短小なものとがあります。
床面は全般に急傾斜をもち、うち塚ノ谷1号窯では焼成部奥半の床面が階段状をなしています。
窯跡の所属年代については、現在公表されている資料中最古のものは六世紀後半に位置付けるのが適当であります。
以後窯業生産はこの地で八世紀までほぼ連続して行われました。
なお八世紀代に属する牛焼谷支群では、最初須恵器のみを焼き、次いで須恵器と瓦とを焼いた例があるようで、この古窯址群でハー時瓦の生産も行われていたことがわかります。
八女古窯址群で生産された須恵器の種類は時期によって大いに異なりますが、六世紀代の窯跡では杯・蓋・高杯・聘・提瓶・各種壺・甕などの器種を焼いており、七世紀以後には提瓶・聘などが消滅し、代わって盤・皿類などが現れます。
また円面硯がつくられるようになったことや、一部で瓦を焼くようになったことも新しい段階の製品の特徴であります。
器種の組み合わせや器種の消長に関しては、八女古窯址群の場合も他地方の例とほぼ同じ傾向を示すといってよいが、ある種の器形についてはかなり地方色が強いです。
しかも全般的傾向として、器形の古い特徴ないし要素がかなりのちの時期まで残る傾向かおることは注意されます。