理番県は中国四川省成都の西北、雑谷江(眠江上流)の渓谷にあるようで、西北は中央アジアの高原へと連なります。
1920年頃より、ここから箱式棺群が盗掘されP・C・グラハムはじめ成都の関係者により収集されましたが、限られた範囲の特種なものといえましょう。
箱式棺は地下2-3mに営まれた長さ約2.5m、幅約75cm、高さ約1mの粘板岩板石製で、遺物は大部分が土器。
土器の胎土はこまかい白砂を含み、精粗の差はあるが灰色から褐色に焼かれ、成形は巻き上げによる手握ねで表面を叩いたり磨いたりしています。
表面には簡単な刻文・叩き目・押型文・縄文、それに白・赤の彩色あるものもごくわずかあるようで、器形は五徳・鍋・釜などの烹妊器、僣壺・甑瓶・匝などの水器、杯・椀・豆・殴敦などの飲食器があるようで、鍋・釜などは縄文、壺には縄文のほか刺突文・三角形連続文などを施します。
この遺跡出土の土器で特に有名なのはアムフォーラ形の壺で、胴の両面に左右相称の大きな渦文を付け、赤で彩色したものもあります。
側面には大きな把手を付け、アンダーソンによる甘粛斎家坪発見の土器に似ているがそれよりも流麗であります。
この土器に文字や記号を記したものがあります。
伴出品には青銅器が多く、連珠ボタン・円形ボタンなど北方系のものや盾と鎧などの武具、利器には剣など、楽器として小鈴類、容器は鍋・尖底瓶などのほか鉄器もあるようで、装飾品として貝やガラス製の玉類があります。
この文化を残した民族は史書にはまったく見られず、現在この地に住む莞族とは葬送方式がまったく異なります。
莞族の先住民戈族かともいわれるが今後の課題であります。
大部分の土器は灰黒陶系のいわゆる漢州文化(広漢県のもの)が四川から入った中国農耕文化の系列に属しますが、アムフォ土フ形の土器は中原系ではなく甘粛方面からのものと考えられます。
とはいえ、このアムフォーラ形土器に漢字を彫っているところは必ずしも西方系のものとはいえないようです。
銅器にもこの両面性がみられるところから、この文化を残した民族は非中国人で、生活は中国流の農耕を営み、その出身は中央アジア系の辺境民であったといえましょう。
年代は戦国式銅剣と近い剣かおり前六世紀をさかのぼらず、下限は半両銭の出土が多く五鋒銭が出ないところから、前一世紀までの間といえましょう。