琉球(沖縄県)の粗陶器。
【沿革概要】琉球にはもと陶業はなかりました。
1617年(元和三)尚寧王が薩摩国鹿児島に使いした際、帰化朝鮮人陶工一六・一官・三官の三名を招請して帰国し、この業を島人に伝えさせました。
一官と三官は早く島津氏に召還され一六ひとりが留まりました。
一六はのち名を仲地麗伸と改め陶法を琉球人に教授し、子孫も遺業を継承しました。
これが琉球における製陶法の起こりであります。
元禄(1688-1704)末年那覇泉崎に仲村渠致元という者が現れて製陶工となり、1723年(享保八)従来の製造法を改良し大いに陶業を開発しました。
翌年八重山島に行きその製法を島民に伝授、1729(同一四)年初めて白陶(実は従前の製品と比べてより白いというのみ)を産出し、また窯を改良しました。
1730年鹿児島竪野窯に至り星山仲次・林新右衛門に陶法を学び、また苗代川窯でもいろいろと伝習し、翌年薩摩窯にのっとり古波蔵山野内に新窯を築きさらに改良、1733年(同一八)日本に貢献用の大花鉢を製作しました。
地元の陶工は初めはその製法を知りませんでしたが、致元の教授により製造することができるようになりました。
このように致元は琉球陶業の中興の祖であり多くの功がありましたので、1752年(宝暦二)にその孫仲村渠に新家譜が与えられ、士族に列せられるという恩命を受けました。
また1748年(寛延元)に那覇泉崎の陶工島袋常男という者が業を起こしました。
原土は恩納間切および名護間切の産を用い、深緑色あるいは黒褐色でやや軟弱な器物、および白釉で微黄色を帯びた器物を製造しました。
さらに1838年(天保九)致元の子孫仲村渠致真は自費で中国清の福州に渡り、厦門人趙世昌につき七ヵ月間彩画の法を伝習して帰り、大いに製陶を進歩させました。
のち1879年(明治こI)3月琉球藩を廃し沖縄県が置かれますと、内地諸方の新法が流入しましたが、いまだその製品は粗雑な陶器および妬器の範囲を出ないようであります。
「製品」二種類あります。
一つは荒焼と呼ばれる粗大な妬器および土器類で、いずれも無釉であります。
まれに施釉したものもあるがほとんど光沢がなくまるで無釉のような外観をしています。
南蛮焼の名で知られているのがこれであります。
品種は壺・鉢および甕類で、壺は泡盛壺を主とし他に骨壺など、鉢には水鉢・手洗鉢・植木鉢かおり、甕は高さ口径ともに75cm前後のものより製造します。
他の一種はいずれも施釉した上焼と呼ばれる日用雑器で、その質は陶器あるいは妬器に属します。
品種に飯碗・9寒(菜碗)・煎茶碗・盃・小皿・中皿・茶家(土瓶)・香炉・仏具・寿器(骨壺)・油壺・火入・阿ン瓶(水注)・酎家(徳利)・湯酎々家(銚子)・居瓶(大酒堰)二輪生花瓶など。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』『北村弥一郎窯業全集』『陶器講座』二)