中国明代の隆慶(1567-72)における官窯の称。この期間はわずか六年に過ぎず個性的な特色をその甕器に見ることは難しく、前後の嘉靖と万暦の両性が半々に混じり合ったものと解すればよいです。しかも時の天子穆宗は倹約を旨とし、御器の焼造もその五年に至ってようやく認めたような状況なので、この期の遺品は極めて少なく一層その特色をつかみにくくしています。青花・赤絵ともに嘉靖の様式をほぼ伝えていますが、文様の布配はやや繁くなり万暦の前兆を示します。