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鶴田 純久の章 お話

中国では孟の小さいものを碗といい、また鎧・安・埃などの字を当てますが、古くは碗の字はないようです。
いずれもやきものの飯器で、飲器を兼ねたものです。
旋は無釉の製であるようで、腕は施釉の土焼であります。
碗はその後の石焼を指すものとみえます。
椀は俗字で、やきものに対して漆器などを区別する用字であります。
朝鮮でも李朝初期の怨は中国宋・元の影響を受け、縁が次第に薄くなり端反りが著しく、線彫に鉄釉を象嵌したりしますが、続いて明代風の染め付けとなり、李朝の中葉には白磁が普通となり端反りも次第に少なく、またその末期は厚手となり端反りはまったく失われてほとんど直立状をなし、その模様は染め付けであります。
しかし一般的にいえば、各時代とも無地物を普通として、染め付けなどは上手物に限られています。
碗形の地方的差別については、北朝鮮地方のものはこれに反し胴がほとんど直線的で口が開き、高台はやや大であります。
またいずれの時代でも食器は大体やきものでありましたが、なお貴族社会には銀器が用いられ、真鐘器は冬季に用いられ、木器は僧侶に使われて、普通品はほとんど陶磁器に限られていました。
わが国で高麗茶碗と称するものは朝鮮人の飯碗であります。
中にも呉器と呼ばれるものは五器などの字も当てますが、正しくは御器で、元来は禅寺の塗椀でありました。
その漆器の椀と同形の茶碗がわが国で呉器と称せられたのであります。
地方によっては今日でもなお飯碗に呉器の称があります。
わが国でも古くは銀製などで「かなまり」というものがあるようで、平安時代には茶碗は磁器の通称ともなっていました。
今日では磁器の飯碗は飯茶碗と呼び漆器の椀と区別します。
わが国の碗は昔は漆器を主として、根来椀とか秀衡椀とかいずれも大形だったのは、一膳飯の旧風によるものといわれます。
呉須手の五郎八茶碗なども、もと朝鮮風の一膳飯碗を伝えたものであります。
奈良茶碗というのは蓋付きの飯碗のことで、奈良地方の茶粥用の碗が普及したものであります。
近代の飯茶碗は古風の呉器形の深いものから変化して、次第に浅く開いた形に赴いました。
これはもと宿屋の好みによって内容を軽くするためであったといいます。
現代におけるわが国普通の飯茶碗は美濃磁器を主として全国に及び、東北で普通に用いられた漆器の飯椀も今日ではほとんど衰廃するに至りました。
(『古今図書集成』『朝鮮陶磁名考』『古事類苑』)※ちゃわん

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