尾形周平 おがたしゅうへい

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鶴田 純久の章 お話

京都の名工。
1788年(天明八)5月初代高橋道八の三男として生まれました。
初名熊吉、のち周平光義と称しました。
尾形姓を名乗った理由はいまだに明らかでないようです。
正妻がなく妾が二人あったが子はないようです。
世に二代周平を称したものがあったが血縁関係はなかったらしいです。
1839年(天保一〇)没、五十二歳。
法名温岑良中居士。
生涯道八の家に住んだそうであります。
近代の名工で最も青磁をよくし古陶磁を巧みに模しました。
1834年(天保五)門人の加集眠平が淡路焼を創製するに当たって迎えられ二年留まりました。
また尾張(愛知県)の大橋秋二、加賀(石川県)の松屋菊三郎らにも教えを授けました。
1849年(嘉永二)三代道八および水越与三兵衛と共に姫路東山焼に赴き指導しました。
東京国立博物館に周平作の急須があり「七十二歳、尾形法橋周平造」とあるが別人の作であります。
(『九谷陶磁考草』『九谷陶磁史』『陶磁』一ノ一)

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