御茶碗師 おちゃわんし

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鶴田 純久の章 お話

徳川将軍家御数寄屋用の陶器製作者。
寛永四年(1627)・正徳三年(1713)・延享四年(1747)版『武鑑』に「御茶咎師浅草門跡前高原平兵衛」とあり、明和六年(1769)版には「御茶碗師浅草門跡前高原平兵衛、西こんや丁茶碗師瀬戸助」の二人の名がみえます。
1836年(天保七)に至り、瀬戸助はもとのままだが高原は次郎右衛門と名が改められ、以後、次郎右衛門と茂兵衛との名を交互に出しています。
これら茶碗師は初期の人は自ら手を下して製作したでしょうが、のちには技術のすぐれた職工につくらせ、自らは家名を保つにすぎなかったようであります。
なお京都の錦光山喜兵衛および岩倉山吉兵衛は、三文字屋九右衛門のあとを受けて宝暦年間(1751-64)より将軍家御用茶碗を調進し、共に御数寄屋御茶碗師と称していました。

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