徳川初期の茶人。
宗和流の祖。
1584年(天正一二)生まれ。
本名重近。
飛騨国(岐阜県)高山城主金森長近はその祖父。
父を出雲守可重といいます。
初め秀吉に仕え従五位下飛騨守に叙され、さらに父と共に徳川氏に属しましたが、大阪冬の陣に際し所領のことで徳川氏に不平を抱き父より勘当されました。
これからのち生母と共に京都に屏居し、剃髪して宗和と号しもっぱら茶人として活躍しました。
茶系は初め千道安の流れを学び、また小堀遠州にも参じついに一流を出すに至りました。
多く堂上公家に出入りし近衛応山・一条昭良・金閣寺の鳳林承章らと親しみ、後水尾院・東福門院・後西天皇も深く宗和流に傾倒されました。
このようなことから宗和の茶は自然に典麗の風を加え、世に「姫宗和」と称されました。
御室焼の野々村仁清は最も宗和の愛顧を受け、その好みをもって独特・優雅な陶器を創出しました。
大徳寺塔中真珠庵の茶室庭玉軒、金閣寺の夕佳亭などは宗和好みの茶席であり、その他花入・塗り物にも好みものが多いようです。
1656年(明暦二)12月26日没、七十三歳。
かつて加賀藩三代前田利常から高禄をもって招かれたが辞退し、子の七之助をもって代わらせました。
七之助は禄千五百石を給わり宗和の茶統を加賀に伝えました。
なお宗和の祖父長近は剃髪して素玄法印と称し利休の弟子であり、父可重は道安または織部の弟子で当代の目利きとして聞こえました。
また安楽庵策伝は長近の弟に当たります。