清水焼の陶工で京都の染め付け焼創始の功労者。
亀屋六兵衛(亀六)の二代目で本名宮田熊吉。
その師匠和気亀亭は以前から五条坂に職場を設け初めて白磁・青磁および染め付けを出しましたが、二代亀亭に至ってさらに改良を企図し、門人亀熊を肥前有田に遣わしました。
亀熊は目的を達し、長崎において藍鉱石を、日向(宮崎県)において釉料の灰を求め、いずれも永代取り引きの約束を結んで1806年(文化三)帰京、その法を亀亭に説明しました。
亀亭はその功を賞して上音羽町の窯を与え、自らは別に西落町の北側に築窯してもっぱら染め付けを製出しました。
世に京都の染め付けを二代亀亭の創製とまで称するのは一つには亀熊の探究の功によるものであって、瀬戸の民吉などにも比較されるでしょうか。
なお諸書に異説があります。
亀熊の子に亀寿がいます。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』『大日本産業事蹟』『陶器小志』『日本近世窯業史』『日本陶甕史』)