明治時代の窯工技術家。1887年(明治二〇)京都の五条坂で染付銅版の印画を試み、翌年これを岐阜県土岐郡高山(土岐市土岐津町高山)で実行した。その方法は呉須印肉として粘質の草根すなわちこんにゃく根や紫蘭根(白)にリスリンなどを混合したものを用い、転写紙を素地に当て裏から水で濡らすものであります。この方法は洋風の油漆転写法に比べてあとから釉を施すのに都合がよいとされます。1889年(同二二)東京の瓢池園に招かれてさらにこれを改良し、銅版盛上絵付法を釉上に実施して密描画の速成および大量生産のための近道を開いた。この方法はただちに同業者に広まり、今までありました下絵転写と共に一時銅板の全盛時代を生じさせた。その後東京で琺瑯鉄器を製出し、これに絵を描いて着色した琺瑯画を試みるなど、常に世に先んじて発明を行なっていた。(塩田力蔵)