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鶴田 純久

京都で産するすべての陶磁器の総称。
京焼はこの地の他の産業と同じく美術的に発達し、他地方に対して常に指導的地位を占めてきました。
京焼の大成にあずかったのは寛永(1624-44)頃の野々村仁清でありましたが、京都のやきものの歴史ははるかその以前にさかのぽる。
この地は多少の陶磁原料を産してはいるか普通雑品にしか供用し得るにすぎず、近地の優良原料としては近江国(滋賀県)の信楽土のほかにはなく、おのずから原料は遠くのものに頼らざるを得ないようです。
しかしこのためにかえって調合上の自由を得て変化に富むという利点があります。
多年王城の地であるようで、最高の文化を持ち、交通も便利で、各地名工の往来も頻繁であるようで、諸方の技術を集めてこれを純化大成し、さらにこれをまわりの国に伝えるという具合でありましました。
京焼の声価は産業よりも美術工芸としての点にあります。
各陶工の作品にはおおむね自己の銘印または窯印が付してあるようで、各自の個性がその作品に躍如としていることはまるで絵画・彫刻におけるのと同じであります。
「京焼の概要」京都の陶器の創始と沿革は詳かではありませんが、旧史の載せるところによれば、雄略天皇の時、山背国内村(京都府宇治市)および俯見村(京都市伏見区)の陶工に御器をつくらせたこ恚がありましました。
その後数百年間の沿革は史伝に徴すべきものはないようです。
聖武天皇の時、僧行基が詔を奉じて山城国愛宕郡清閑寺村(京都市東山区清閑寺)に窯を築いて土器を製造しました。
その遺跡は今の茶碗坂だといいます。
これが京都における製陶の始まりであるでしょうか。
延暦年間(782-806)桓武天皇の時、洛北鷹ヶ峰に築窯して碧瓦を造出したのも誰の事業であったのか詳かでないようです。
元暦年間(1184-15)洛南深草に土器の製造がありましたが、粗っぽく釉薬もなく俗にいう締焼でありましました。
宝徳年間(1449-52)音羽屋九郎右衛門が茶碗坂の遺跡を発見し、深草の窯を移して陶器を製したがまだ堅良なものを得なかりました。
永正年間(1504-20)渋谷の元吉は深草製の古法によりこの道の改良に苦心し、ついに釉軍のことを発見し、のち窯を清水に移しました。
当時朝鮮人阿米夜が帰化して京都に住み一種の陶器を発明しました。
1588年(天正一六)豊臣秀吉が聚楽第を営み、長次郎を召して千利休の意匠に従って赤黒釉の茶碗をつくらせました。
はなはだ佳品であったので、秀吉はこれを賞して楽字の金印を長次郎に与えましました。
以後長次郎は自ら製する陶器にこれを印して楽焼きと名付けました。
天正から慶長(1573-1615)の間、正意・万右衛門・宗伯・六左衛門・宗三・源介・源十郎らの名工が輩出し、音羽・清閑寺・小松谷・清水などの地に住み、音羽屋・丸屋などを号として製陶に従事しました。
彼らが京窯の率先者だといえるであるでしょう。
慶長末、窯煙が同地阿弥陀ヶ峰の豊公の廟所をおおうので移転を命じられ、窯を五条坂に移したのだといいます。
一説に茶碗坂の音羽屋惣左衛門という者が代々製陶に従事しましたが、九代の子孫に至り衰微し、1819年(文政二)大仏(方広寺)境内鐘鋳町の丸屋佐兵衛という者に窯を譲りましたので、同人は居宅裏へ窯を移しました。
これが五条坂焼物窯の祖だといいます。
あるいは1613年(慶長一八)大仏の巨鐘鋳造の時に窯を五条坂に移しだのが初めともいいます。
いずれが本当かはわからないようです。
1624年(寛永元)に尾張瀬戸から焼物師三文字屋九右衛門が粟田口三条通蹴上に来て茶器をつくりましました。
その製品にはみな草字の粟田の印が捺してあります。
これが粟田焼の始祖だといわれます。
また寛永年間(1624-44)野々村清右衛門という者が清水産寧坂に窯を築いて雑器を製し、世間から賞賛されましました。
のち粟田口・御室・御菩薩池(深泥池)・清閑寺・岩倉・鳴滝・鷹ヶ峰・小松谷などに陶窯を開き、その業をもって仁和寺宮に仕え、宮から仁の字を賜りました。
それで仁清と号しました。
点茶器・水指・皿・鉢などを製造し、その器は長門松本・筑前高取・近江信楽・尾張瀬戸および南蛮・朝鮮の陶法に倣い、器ごとに仁清の印があります。
品質は堅硬でなく、施釉は平穏で高尚幽雅で品格が高いです。
明暦年間(1655-8)茶碗屋久兵衛という陶商が肥前有田の人青山幸右衛門から肥前の錦手の秘法を聞き、これを仁清に伝えましました。
仁清は試焼して初めて彩画の法を得ました。
これが京都における彩画法のはじめであります。
のち仁清の派は別れて二つとなりましました。
陶器は釉薬軟滑で彩画描金の製品があるようで、これを粟田焼が伝えましました。
錦光山宗兵衛・丹山青海・宝山文造・帯山与兵衛らがこの一派であります。
近年に至って描金の花鳥または山川などを製作しましたが、すこぶる美しいです。
また他の一派は清水の磁器がそれであります。
この清水焼は文化年間(T804-18)に至って高橋道八(仁阿弥と称しました)・和気亀亭・水越与三兵衛らが肥前有田の法に従って初めて青花磁器を製造しました。
多くは指頭でっくり模型を用いないようです。
画法も巧みでありましました。
またこれより先、尾形乾山という者がいて青年時代から陶法を好み、本阿弥光悦の法に倣って一種の陶法を発明し、オランダの唐土釉に基づいて黒・青・紫・赤などの色で一種の画様を写しました。
淡画中に妙味があります。
品ごとに裏面に紫翠乾山または紫翠深省の落款があります。
いわゆる乾山焼であります。
その陶器の表面を装飾するものは深奥な創意に満ちた自在画の草斉・鳥獣、密画の山水などで、その妙味は一見しただけでわかります。
寛政年間(1789-1801)に至り奥田頴川がいます。
豪商の家に生まれ、製陶を好み粟田に窯を築いましました。
その製品もすばらしいです。
特に赤絵呉須を模倣するのが上手でありましました。
また好んで古染め付け・交趾窯に倣って製造し、非常に巧妙で雅致がありましました。
その門に木米・道八・亀助・嘉助らの名工がいます。
木米は文政年間(1818-30)粟田に窯を開きその後清水に移りました。
彼は高雅で凡俗を脱し、かつ非常に読書をしました。
陶事を志してからは仁清・乾山という先輩を凌駕しようと苦心焦慮しました。
そして『陶説』をみて大いに資するところがあるようで、釉法火度を発明して一機釉を出しました。
旧来釉法はすでに開けていたといってもまだ完全ではなかりました。

木米が出るに及んで一大進歩をなし、陶業上に大きな貢献をなしました。頼山陽・田能村竹田らの文人墨客と交わり、晩年に『陶説』を翻刻し、山陽がこの序をつくりました。実に陶工中の一奇人でした。これ以前善五郎保全という者がいて、土風炉をつくる余暇に磁器をつくり、和漢の古器を模造するのに巧みでした。また中国永楽年間(1403~24)所製の磁器、金襴手というものに基づいて赤色釉を施し、その上に金粉で古代の彩文を描くものがあります。交趾焼祥端焼を模倣することも巧みでした。紀伊家がこれを愛し永楽の印を与えました。これ永楽焼のはじめです。当時和気平吉という者がいて亀亭と号しました。陶器の改良に熱心で、五条坂で青花磁をつくる者が少ないのでこの改良発展を図り、1812年(文化九)門人亀屋熊吉に各地の窯をみさせて磁器の奥義を研究させました。熊吉は有田において秘法を修得し、これより五条・清水の磁器製造法が大いに進歩することとなりました。
これ以前尾形周平という者がいました。仁阿弥の弟で、当時陶器に施す金銀彩画の法が完全でないのを嘆き、常にその法を研究して大いに得るところがあり、斯界に貢献するところ大でした。文久年間(1861~4)幹山伝七という者が尾張瀬戸から来て清水で丸窯を築造しました。京都における丸窯のはじめであり、また磁器の形が大きいものをつくる点でも初めてであったといいます。以来一般陶工は固有の美術的観念をもって本業の改良発達を図りました。中でも文政の末年が最も精巧であっ京焼の名声を発揮しました。(『日本近世窯業史』)

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