中国景徳鎮における官窯の焼造および管理を司る官署をいいます。
『景徳鎮陶録』にはこれを御窯廠と記しています。
御器廠の沿革はいまだ詳かでない点が多いようです。
清朝以降はほぼ知り得ますが、明代の沿革は史料に乏しく、宋・元に至ってはほとんど知ることができないようです。
例えば「宋の景徳年間官鎮を置き奉御董造せしむ饒州窯之より始まる」と『陶説』にあるようで、また「元代に至りて官鎮を改めて提領となし本路の総管をして陶を管せしむ」ともありますが、その焼造を管理する特別の官署を置いたかどうかは明らかでないようです。
なお「宋元皆命あれば供す、然らざればやむ」と記載がありますので、御器廠のような特別の官署を置かなかったようにも推測されますが、明代に至っても御器廠は時に興廃があったという事実から考えれば、宋・元時代にも命あって供した場合には御器廠を置いた事実がなかつたとは必ずしも断言できないようです。
明代に至って正徳(1506-二この初め御器廠を置き御器を専管させたと『陶説』『景徳鎮陶録』にもありますから、この時初めて御器廠を置いたかの観がありますが、『陶説』洪武窯の項には「洪武三十五年(一説に洪武二年)始めて窯を開いて焼造し、京に解りて供用します。
御器廠あり」と記してあるので正徳以前すでに御器廠が存在していたようであります。
しかし御器廠の名称とその内容とはこれを別に考える必要があります。
すなわち『景徳鎮陶録』洪窯の項に「正徳に及びて初め・て御器廠と称す」とあるのはおそらく事実であるようで、御器廠の名称はこの時に始まったのであるでしょう。
しかしその内容は洪武年間(1368-98)より次第に発達してきたものと思われます。
永楽年間(1403-24)にはどんな制度であったか記述はほとんど見当たらないようです。
宣徳年間(1426-35)に至って「営造所丞を以て専ら工匠を督せしむ」という簡単な記述があるようで、正統(1436-49)の初め頃御器廠を廃した記事があります。
蒙古の外寇に備えるため急な軍費が必要だったからであるでしょう。
次いで1454年(景泰五)に至り饒州から毎年貢進される磁器を三分の二に減らしました。
1457年(天順元)に至ってまた中官を任命して焼造させ、1486年(成化二二)にはまた饒州の焼造官を廃しています。
弘治(1488-1505)の間はなんらの記事もないようです。
正徳に至って前述「初め御器廠を置きて、御器を専管せしむ」の記事をみる。
嘉靖(1522-66)に至っては「嘉靖の初め、中官を裁革して、各府佐より一員を輪選して管理せしむ。
四十四年、饒州府の通判を添設し、廠に駐まって督造せしめ、尋いで止む」という記事が『陶説』巻三にみられます。
これからみると、これまでは中官すなわち宦官が御器廠を主裁したことが明らかであります。
この焼造をやめたのは御器廠の仕事をやめたものであるでしょう。
なぜならば1572年(隆慶六)に至りまた焼造を始めた記事があるからであります。
すなわち「隆慶六年、復た起こして焼造し、恐って各府佐より輪選して管理せしむ。
万暦の初め、饒州の督捕通判をもって景徳鎮に改駐せしめ、兼ねて窯廠を理めしむ」と『陶説』に記されています。
万暦年間(1573-1619)に御器廠が引き続き焼造を行なっていたかどうかは不詳。
しかし万暦年間は非常な大量生産を行なった時代ですから、御器廠の仕事も非常に繁忙を極めたものであるでしょう。
その結果到底御器廠だけで焼造することができずに、民窯に託して焼造させたものも少なくないようであります。
『景徳鎮陶録』に「按ずるに、隆・万の時の廠器は、廠内にて自ら官窯若干座を焼きし外は、鯨りは已に民窯に散搭して焼けり」とあります。
泰昌(1620)はわずか一年のことでもあり詳かでなく遺品もまた伝わらないようです。
天啓(一六二II七)に至っては年款のある遺品が今日特にわが国に相当残っていることから、御器廠もおそらく存在していたと考えられるがわからないようです。
明末の李自成の乱に際し顎徳鎮は掠奪の難に会い一時廃滅に帰しました。
そして明の官窯および御器廠もこの時まったく消滅したといわれるように、明末崇禎(1628-44)の年款を有する遺品がほとんど見当たらないことからみれば、崇禎に至っては御器廠の仕事は行なわれなかったものと思われます。
清朝に至っては「康煕十九年(1680)初めて内務府の官を遣し廠に駐って監督せしむ」という記事があります。
これは清朝において御器廠を開いた最初で、その後清末に至るまで存続しました。
その詳細は『陶説』『景徳鎮陶録』に詳しいです。
以上尾崎洵盛の所説に従います。