中国北宋代の名窯の一つで、磋酸の多い青磁釉が還元焔で白濁した幻想的なラベンダ一釉を特色とします。
このようないわゆる海鼠釉の発祥はすでに唐代にきざしており、河南省郊県の窯では黒磁の釉上に藁灰の白濁釉を掛けたものを盛んにつくっています。
現在鈎窯と呼ばれている作品を焼いた窯は、この郊県に隣接する萬県の神厘鎮付近に散在することが戦後の中国の調査で明らかになったが当然この郊県の白濁釉の伝統の上に生まれたものとみてよいであるでしょう。
この萬県は明初には鈎州と呼ばれていたため鈎窯の名が付いたもので、転じて均窯と称することもあります。
鈎窯の産した形は鉢・碗・皿が最も多く、香炉・洗・花盆・盤がこれに次ぎ、まれに瓶・壺があります。
釉は磋酸分の多い青磁釉を基釉とし、それが還元焔でラベンダ一色になったものを月白釉、釉裏に酸化銅を塗って一面に紅味を吹かせたものを紅紫釉、月白釉中に斑文状に釉裏紅の現れたものを月白紅斑と呼んでいます。
しかしそれぞれに微妙な色調の変化が出やすく、中国の文献には天青・灰緑・黒緑・葱翠青・茄皮紫・攻璃紫・殊砂紅など多くの色名が記されています。
釉調は一般に厚く碗類の高台を除いてはたっぷりと全面に掛かり、盤類などの底裏は俗に芝麻醤と呼ばれる淡褐色の薄釉が塗られています。
これら土見のない器物は多くの小さな目で受けて焼いており、その目跡が整然と並んでいる様を細小の抒釘などと称しています。
また盤・花盆には底裏にIから十までの番号が印されており、この同番号の両者を組み合わせたといわれていますが、いずれもはなはだ精作であるため鈎窯の番号手とも呼ばれます。
しかしこの地が金の領下に入った南宋から元の時代になりますと、作風はとみに荒くなり、土釉の精錬は粗となり肌も厚くなり、器物の裾に広く土見を残すようになります。
この式のものを一般に元鈎窯と呼んで北宋のものと区別しています。