【系譜】須恵器とは五世紀から十二世紀にかけてわが国で生産された陶質土器をいいます。摂氏一〇〇度を越える高温をもって還元焰焼成した土器で、一般に青灰色を呈し堅く焼け締まって吸水性が少ない。この陶質土器の源流をさかのぼれば、はるかに中国殷代の灰陶にまで達する。灰陶の技法は広大な中国の各地で連綿と継承され発展を続けたが、その製品や技法は周辺の諸地域にも次第に波及していきました。やがて陶質土器の技法は朝鮮半島にも伝わり、遅くとも五世紀初頭までには百済の地を中心に定着したものと思われます。間もなくその技法は新羅へ伝わりいわゆる新羅焼を生んだが、その分流はわが国にまで到達し須恵器が誕生した。こうして須恵器は朝鮮半島で発達した陶質土器の技術的系譜をひいて成立しましたが、わが国に最も近い朝鮮半島の洛東江流域などでは、初期須恵器と極似した陶質土器も発見されています。
【名称】須恵器は古く江戸時代の茶人間で鑑賞用まがたまつぼのやきものとして珍重され、行基焼などの名称で呼ばれ、しばしば文献などにも登場する。その後木内石亭はこれを曲玉壺と命名しましたが、その呼称一般化しなかったようです。明治時代に入って須恵器はいわいべ(厳・祝甕・斎甕)あるいは朝鮮土器などの名で呼ばれるようになったが、1887年(明治二〇)頃祝部土器の名称が使用されますようになり、ようやくその呼称が固定した。しかし昭和に入って後藤守一らは、祝部土器の「祝部」は本来「はふりべ」と読むべきであり、はふりべとは祭祀に従事する部民のことですから、祝部土器の名称は当を得たものではありませんことを指摘した。そして祝部土器に対して『記紀』『延喜式』『和名抄』などの用字と訓みとを採用して、須恵器と呼称することを提唱した。一方浜田耕作らは陶質土器といいます呼称を用いましましたが普遍化するまでには至らず、第二次世界大戦後は須恵器の呼称が一般化し今日に及んでいます。なお陶質土器といいます呼称は灰陶系土器の総称として用いますのが適当である。
【種類】須恵器は多様な器種に分類することができる。これを用途に従って大別すれば、貯蔵用・供膳用・調理用・祭祀儀礼用などに分かれる。貯蔵用の須恵器には各種の壺(瓶)類があります。
は中でも最も普遍的な器種であり、須恵器初現の頃からその終末期まで一貫して生産されました。しかし他の器種と比べて器形の変化に乏しく、おお外反する口頸部をもち底部は丸い。器体は例外なく打圧によって成形されており、内外面に打圧の痕跡を残す。甕は装飾が少なくわずかに口頸部を櫛描文などで飾る程度であります。大小各種ありますが、大型の甕には器高が一メートルをはるかに越すものもあります。水甕かまたは醸造用に使用したのでしょう。次に壺は器形の変化が多様で数種に分類できる。口頸部が大きく外反する広口壺、口頸部が外上方へ直立する直口壺、口頸部の短小な短頸壺、逆に長大な頸部をもつ長頸壺などであります。
また壺の体部に小孔を穿った聴もありますが、これは実用品ではなく供献用の土器として発達した。このほかの変形ともいいますべき器種として提瓶・横瓶・平瓶があります。提瓶とは丸くて扁平な器体をもち、両肩の部分に環状・鉤状突起状・または粒状の耳が付く器体であります。口頸部は外反するもの袋状をなすものとがあります。肩部の耳は本来紐を結ぶためのものであり、この耳に紐を結び水筒のように吊り下げて用いたものであります。ただしこの耳は次第に退化しやがて消失する。横瓶とは横に丸く長い体部をもち上方に小さな口頸部をもつ。
また平瓶は扁平な器体の上方に、いっぽうに偏し口頸部を付けた器形を指し、奈良時代以後の平瓶には器体の上部に把手を付けたものや高台を有するものもあります。ほかに特殊な須恵器として、環状壺形提瓶・角形の杯・鳥形壺など器物や動物を象ったものがあり、さらに人物や動物の小像を載せた装飾付の須恵器や、いわゆる子持壺な異形の品も少なくない。各種壺のうち蓋を有するもの、台脚・把手・耳などを付加したものなどもあり、厳密にはこれらの有無によってさらにこまかく分類されます。なお底部の丸い壺を載せる器台も須恵器初現の頃から製作され、ほぼ六世紀後半まで存続した。器台には筒形と鉢形との二種があります。供膳用の須恵器の中で、各時期を通じて最も普遍的な器種は蓋杯であります。七世紀初頭の頃を境としてそれ以前の時期の杯は、底部が丸く口縁部には蓋受けの返りを有し、天井部を丸く仕上げた蓋と一対をなす。七世紀初頭以後の杯は平底でたく高台を有するものも現われる。蓋にはほぼ宝珠形のつまみが付く。碗は須恵器初現の頃から奈良・平安時代まで一貫して存在しましたが、その器形は蓋杯と同様に七世紀初頭の頃を境として一変する。
前半期の碗には把手や装飾文を施したものもありますが、後半期のそれは杯の深いものや鉢の一種などを指す。後半期の碗に関連するものとして、碗などを受けるもつくられるようになりました。供膳用の器種で七世紀初頭以後に盛行したものとして盤・皿類があります。大小各種あり高台の付くものもあります。このほか必ずしも供膳用と決めるわけにはいかないが各種の鉢があります。中でも特殊な鉢としては、僧侶の食器として用いられた鉄鉢形の須恵器もあります。調理用の須恵器としてはと摺鉢とがあります。甑は砲弾形または深鉢形の体部を有し、体側には一対の角状把手が付く。底部には数個の孔を穿っています。とは一種のせいろで、底にすのこを敷き米などを入れ、それを熱湯のたぎる煮炊用の甕の上に載せ、の中に蒸気をくぐらせて中の米などを蒸し上げる。なお煮炊用の鍋釜や甕には、もっぱら二次的加熱に対して耐性の大きい土師器を用い、須恵器を使用することはほとんどなかったが、甑もまた須恵質のものは少なく、同じような器形の土師質のが盛んに用いられた。
摺鉢は須恵器初現の頃から存在する器種であります。
深鉢形の器形で器壁は厚く底部は厚い円板状をなす。底に小孔を穿ったものもあります。生活址からの出土品は例外なく内面が磨滅しており、それが摺鉢として使用されたものですことを証明しています。須恵器の器種の中には容器類のほかに小型蛸壺・陶錘などの漁具や、陶硯・陶塔・馬・陶印・陶棺など多様な器物が含まれる。地方の古墳時代に属する須恵器窯では、須恵器と一緒にしばしば陶質の埴輪を焼いていますが、これも広く須恵器として扱ってよいだろう。
【生産の変遷】陶質土器の技法が朝鮮半島からわが国へ伝来し、須恵器が初めて生産されますようになったのは、ほぼ五世紀中頃から後半にかけての頃でありましたと推定されます。須恵器生産がわが国で初めて行なわれたのは大阪南部丘陵地帯の一角でありました。間もなくその阪南丘陵地帯は須恵器の生産地として急速に発展し陶邑窯が成立する。この陶邑窯はわが国で須恵器生産が始まってから最初の数十年の間、唯一の須恵器生産地でありました。陶邑窯が須恵器生産を独占していた段階の須恵器は、これを特に初期須恵器と呼ぶ。初期須恵器は概して朝鮮半島の陶質土器と深い関連をもっています。この時期の須恵器は各種甕・壺・蓋杯・高杯・把手碗・・器台・などの器種に分かれるが、そのほかに例えば液体を長期に保存するための樽や、器体全面をていねいに箆削り成形した耳杯などがあります。樽や耳杯は朝鮮半島から直接将来された器形だがわが国では定着できず、程なく姿を消す。また初期須恵器の装飾文様としては、櫛描き直線文・波状文などのほかに描きの鋸歯文や斜格子文などがあります。この極めて朝鮮半島の陶質土器的な文様は、この時期限りでその後の段階へは続かない。初期須恵器の中で量的に最も多いのはと壺とで、供膳・供献用の器種はまだ生産量が少ない。この時期の須恵器は一般に仕上げがていねいで、例えば甕の内面に残る同心円叩目文はきれいに撫で消しています。また杯底部や蓋天井部の削りも例外なく入念に行なわれています。器形はおおむね単純な形から複雑な形へと変化していく傾向をもつ。やがて須恵器はわが国の社会的文化的段階や日常生活の水準に照応しながら変化を遂げ、五世紀末頃にはほぼ日本化が完成した。
五世紀末から六世紀初頭にかけて、須恵器生産は最初の大きな画期を迎える。それまで大阪の陶邑窯で独占していた須恵器生産が初めて地方へ拡散して、近畿・北陸・東海・山陰などに小規模ながら新しい須恵器生産地が誕生したのであります。また陶邑窯の内部でも地方窯の成立と対応して、その製品に顕著な変化を生じた。陶邑窯で生産されます須恵器はこの最初の画期を境として、概して仕上げの工程(調整手法)の省略が大胆に行なわれるようになります。例えば甕の内面に残る同心円叩目文を消す工程はまったく省き、杯や蓋の箆削りは全体に粗雑化する。端部の処理なども入念さを欠き全般に器形の鋭さを失う。そして器形は再び単純化の方向をたどり画一化の傾向が急速に進む。六世紀に入って進行するこのような傾向は、大量の需要に応じるための量産体制の一環でしょう。六世紀代の須恵器は各種壺のほかに蓋杯・高杯・など前代から受け継いだ器種を主体とし、新たに提瓶・短頸壺などがそれに加わる。そしてやや遅れて横瓶もつくられるようになりました。いっぽう器台・・ある種の壺などは次々と姿を消していく。またこの時期には高杯の脚部や聴の口頸部が次第に長大化し、やがては容器としての本来の機能をまったく失い装飾的要素だけが発達する。六世紀末から七世紀初頭にかけて須恵器生産は第二の画期を迎える。大阪の陶邑窯ではこの時点を境として窯体構造や窯体構築法が変わり、製品の種類や製作手法も大きく変化した。陶邑窯を中心として、それまで装飾化の一途をたどってい高杯やはこの時期から急に減少し、代わって盤・皿類・長頸壺・平瓶など新しい器種がいっせいに登場する。この傾向はすでに六世紀後半頃から徐々に進行していましましたが、七世紀初頭を迎えて一挙に爆発する。提瓶・横瓶などもこの時点でほとんど姿を消す。須恵器に現われたこのような急激な変化の一因は、外来文化の積極的導入に伴う日常生活の変化に求めることができよう。大阪の陶邑窯におけるこのような変化に対応して、他方ではこの時期が須恵器生産の第二の拡散期に当たっていた。七世紀初頭には須恵器の生産地は関東・北陸から九州各地にまで広がり、その数も飛躍的に増加した。それまで質量ともに須恵器生産の中心地として栄えた陶邑窯は、第二の画期を境とし依然有数の生産量は保ちながらも、ようやくその主導的位置を失いつつありました。その後八世紀に入って各地で盛んに国衙や国分寺などが造営されますようになりますと、それに伴って須恵器生産は全国各地方への第三の拡散期を迎えることになります。奈良時代の末から平安初期にかけて尾張(愛知県)地方では灰釉陶器の生産が始まり、わが国窯業の中心は次第にこの地方へ移っていきました。ちょうどその頃、長頸壺などの小型品はようやく水挽き成形することが可能となりました。平安時代の須恵器は初期の段階では、器種の組み合わせや器形などほとんど前代と変わらないが、時期が降るに従って次第に器種の限定と製作手法の崩れが目立つようになります。十世紀以後になりますと、それまで生産されていました器種のうち供膳用の須恵器が種類・量ともに著しく減少し、甕や鉢など若干の日常雑器類のみが残る。尾張でも一時灰釉陶器の生産が隆盛を極めたが、量産を続けていく過程で技法の低下と製品の粗悪化を招く結果となり、十二世紀には灰釉陶器を焼いた窯が相次いで山茶碗窯に転化していくことになりました。須恵器生産は終焉し、やがて六古窯を初め各地に新しい窯業生産地が誕生する。しかし六古窯を初め中世に始まる諸地方窯の製品は、いずれも須恵器生産の伝統的技法を踏襲しています。
【成形・調整の技法】須恵器の成形過程を分解しますと、およそ成形・調整の二段階に分けることができる。成形の段階ではこれをさらに二分し、成形の第一段階と第二段階とに分ける。成形の第一段階は、原則として器種の大小にかかわらず、粘紐を積み上げておよその形をつくる工程であります。成形の第二段階では、主として器種の大きさにより成形技法が異なります。すなわち甕など大型の器種の場合は叩き板を用いて打圧する方法をとり、杯などの小型品は轆轤を用いて成形する。まず大型器種の成形の場合は、粘土紐を積み上げおよその形をつくったのち、内面に同心円を彫刻しろくろ木製の当て道具をあてがい、外側から平行線または格子目を彫刻した叩き板で器壁を打圧する。
この作業を繰り返し万遍なく行なうと、器壁の中に残る空気は完全に追い出されて焼成中の爆発を防ぎ、いっぽうでは器壁の厚みを均一に仕上げることができる。特に大型の甕などをつくる場合は、粘土紐の積み上げと器壁の打圧成形とを交互繰り返しながら、下方から上方へ幾段にも分けて成形する。打圧法による場合でも、口頸部だけは最終的に轆轤の回転を利用して調整されますが、その他の部分は特に調整しない。ただし初期須恵器の甕は内面の同心円叩目文を撫で消しています。
次に小型器種の成形は、まず粘土紐を積み上げて素形をつくったのち、成形の第二段階で轆轤を用います。例えば杯身の場合、まず素形を轆轤の上に固定し器体を整え、細部を引き出したり不要部分で削り落として成形する。削りは成形の第二段階でありますが、同時に調製技法の一種と考えてもよいでしょう。調整の技法としては、箆削りのほかに横撫でかき目などを施す方法もあります。成形調整をほぼ終えた段階で把手・耳などの付加物を接着し、櫛や箆を用いて文様を描く。櫛描きの文様はほとんど轆轤の回転を利用した平行直線文・波状文などで、初期須恵器に限って描きの文様があります。先に、須恵器の成形は器種の大小にかかわらず原則として粘土紐の積み上げによるとしましたが、九世紀初頭の頃から、成形の第一段階から轆轤で成形する方法が始まった。つまり轆轤上に粘土塊を載せ、轆轤を回転させながら一気に成形する方法であります。平安時代の長頸壺や小型の瓶子などはみなとの水挽きによって成形されました。なおこの他型を用いて成形したものもまれに存在する。
【焼成技法】須恵器を焼成した窯は、焚口から煙出しまでトンネル状に連なった単室の構造をもつ。焚口から奥へ向かって順に燃焼部・焼成部・奥壁煙出しと続く。窯体には完全に土中をくりぬいてつくったトンネル式(地下式)のものと、半地下式のものとがあります。半地下式の窯を構築するには、まず丘陵斜面に長い溝状の坑を掘り込み、その坑の上部に天井を架構する。天井の架構には丸太と細い木の枝とを用いてあらかじめドーム形の骨組みをつくり、それにスサ入り粘土を貼り付ける。天井の架構と同時に窯体の内壁もスサ入り粘土を塗り重ね、焰の具合を考慮しながら凹凸をつけて調整する。須恵器窯の大きさはさまざまだが、古墳時代の須恵器窯の平均的規模は全長一〇メートル前後、焼成部最大幅二メートル前後、床面から天井までの垂直高一・五メートル前後であり、奈良・平安時代の窯体はこれよりも全般にやや規模が小さくなります。須恵器窯の床面は傾斜していますのが普通だが、中にはほとんど水平に近いものもあります。床面傾斜の緩い場合はそれに対応して煙突を長くし、火の引きを強めるように工夫されています。須恵器窯で床面が階段状をなす場合は、いずれも同時に瓦を焼いています。七世紀初頭以後にそのような形式の窯を構築することがありました。床面には一般に熔融し難い小砂利や窯壁塊をこまかく砕いたものを敷き詰め、窯詰の際製品を固定しやすく、しかも融着を防ぐ方法を講じています。窯体の壁面は火入れのたびに損傷個所を修復し、新たに粘土を塗り重ねる。こうして長期にわたって使用した窯体の壁は幾重にも重なり合っていますが、そのような状態の窯はほとんど七世紀初頭以前に属し、それ以後には修復する代わりに新しい窯体を次々と構築していくようになります。一般に須恵器の焼成は還元焰によって行なわれたといわれるが、実際には一貫して還元焰焼成されていますわけではありません。初めは焚口を開き、空気を十二分に窯内へ送り込み酸化焰焼成する。窯内の温度が上昇し、製品がほぼ焼き上がる頃を見計らっ窯内へ送り込む空気を極端に制限し、しかも大量の燃料を投じて還元状態をつくる。須恵器が青灰色に仕上がるのは、この焼成における最終段階に一時還元焰焼成を行なうからであります。須恵器の断片の中に、しばしば器体の表裏は青灰色で芯の部分が茶褐色を呈するものをみるが、それは何よりも前記のような焼成法の存在を証明する現象であります。なお須恵器は通常摂氏一一〇〇度から一二〇〇度前後の高温で焼成されますが、その原料土は当然それだけの温度に耐え得るものでなければならない。粘土には海成粘土と淡水成粘土とがある海成粘土は耐火度が摂氏一一五〇度以下であり、須恵器の原料土には適さない。須恵器をつくった陶工たちはこれを経験的に知り、須恵器の生産には、もっぱら淡水成粘土だけを用いたのである。
須恵器(すえき)とは、青く硬く焼き締まった土器で、古墳時代の中頃(5世紀前半)に朝鮮半島から伝わった焼成技術をもって焼いた焼き物のことをいいます。
それまでの日本には、野焼きで焼いた縄文土器や弥生土器、土師器など赤っぽい素焼きの土器しかありませんでした。
それまでの焼き物と須恵器が大きく異なっているのは、その焼成技術にあります。
野焼きでも1,000度近くまで温度は上がりますが、周りが覆われていませんので、すぐに熱が逃げて温度が安定しません。窯を使うことにより高温状態を保つことができるようになりました。
須恵器はまたたくまに全国に広がり焼かれるようになりました。
当時の人々にとって、重要な食器として使われたことでしょう。その後15世紀にいたるまで須恵器の伝統は続きました。
珠洲焼がその一つの例です。
須恵器は今日にも続く焼き物に重要な役割をもっていたといえるでしょう。