久尻窯 くじりがま

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鶴田 純久の章 お話

岐阜県土岐市泉町久尻の陶窯。
久尻を古くは携と記し、慶長(1896~1615)の頃は郡尻と記しました。
この地の陶業が世に現れたのは天正年間(1573~92)のことで、加藤市左衛門景光が久尻清安寺の裏山に窯を築いたのに始まります。
駄知町の加藤宮蔵所蔵の文書によりますと、景光は1574年(天正二)8月にこの地に来ました。
景光は瀬戸景正(初代藤四郎)の十三世である四郎右衛門景春の次男(一説に三男)で、もと尾張国飽津村(愛知県瀬戸市赤津町)に住み、製陶の技に熟して名声があるようで、同年正月には織田信長から陶器窯免許の朱印状を受けました。
しかし同業の妬みを買い身に危険が迫りましたので、外戚である久尻の新右衛門という者を頼ってこの地に来て名を与三兵衛と改めました。
しかし彼が永住の決心をしたのは1583年(天正一二)であるといいます。
景光は退隠後は僧となって清安寺に住み、1585年(天正一三)8月11日七十三歳で没しました。
後人は景光を仰いで美濃の陶祖となしました。
景光には三男があり長男を四郎右衛門尉景延といいます。
天正年間父に従って久尻に移りもっぱら陶業を事としましたが、たまたまこの地に来た肥前唐津の浪士森善右衛門という者が景延の陶器を見てその技術を批評し、ついには景延を伴って唐津の窯業を視察させました。
おそらくは父景光の没後のことであったでしょう。
そして景延は帰国後唐津窯を築き初めて白釉の陶器を製出したといいます。
世に道具窯または藤四郎焼といきました。
当時の尾張・美濃(愛知・岐阜県)の窯は窖窯でありましたが、この肥前伝来の唐津窯は連房式の登窯でありました。
後陽成天皇の時(1586-1611)に正親町上皇が景延の製品を求められた際白釉薬の茶碗を献上し、以来年々貢献して1597年(慶長二)7月5日筑後守に任ぜられ、「筑後の朝日焼」の名称を得ました。
おそらくその製品が卓絶していたからこのような名誉の勅宣にあずかったのであるでしょう。
以後この地の工人たちはその窯式を学び、唐津窯がこの地方に伝播しました。
1632年(寛永九)2月2日没。
墓は清安寺の南面久尻の中島というところにあるようで、傍の石碑の表に松岳景延庵主、裏に寛永九申年2月2日筑後守藤原景延公と記されています。
景延の子に太郎右衛門尉景重、九郎右衛門尉景実、新兵衛尉景伸(一説に景仰)、ほかに女子二人がいました。
これらの子孫はそれぞれ繁行して美濃国土岐・可児・恵那三郡の各地に窯業を開きました。
(『をはりの花』『岐阜県産業史』)

森善右衛門 もりぜんえもん

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