康煕窯 こうきよう

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鶴田 純久の章 お話

中国清朝康煕年間(1662-1722)の官窯。
略称康窯。
明朝が滅び清朝となった順治年間(1644-61)にすでに景徳鎮で御器廠の活動を開始し焼造を行なった記録がありますが、盛んに焼造を行なうようになったのは康煕朝以来のことであります。
しかし康煕の初期における御器廠の活動に関する知見はほとんどないようです。
ただ郎窯という窯が康窯の特産として評判を得ていました。
これは郎廷極が焼造したものと伝えられていますが、郎廷極は1665年(康煕四)から1668年(同七)に至る約四年間の江西・江南両省の総督であるようで、このような広汎な地域を統治する重責の身にありながら窯事のようなものに自ら関与したかは多大な疑問があります。
そして康煕の初年においては他にほとんど記録の証明するものもないようです。
ただ1671年(同一〇)に祭器などを奉造して都に送ったとみえます。
ところが1673年(同一二)に至り雲南の総督呉三桂の反乱が起こって御器廠も壊滅に帰し、次いで台湾・福建などにも騒乱が起こり窯事は中絶しました。
1678年(同一七)に至ってやっと呉三桂の乱も鎮まり、その後二、三年の間に南方も平定されて、窯事もまた復活する機運に向かったようであります。
1680年(同一九)9月初めて御器を焼造させ、唐儲司郎中途廷弼・主事李廷禧を景徳鎮に派遣し、御器廠に留まって御器焼造の監督をさせました。
従来は饒州府(江西省)の管轄区域にある諸地方から熟練した陶工を徴発して強制的に焼造に従事させる制度でありましたが、これを改めて自由労働の制度となし、焼造を行なうたびごとに陶工を召集して材料を供給し、その費用は全部政府から支給し、支払うべき金額はその時の市価に応じ期限到来と共にこれを支払うこととしました。
また従来焼造された磁器を運搬する費用は各地方の負担であったのを廃して、すべて官の支払いとしました。
また地方官吏の行政事務より窯事を除去して吏員には本来の行政に没頭するようにさせました。
これらによって御器廠の窯事は必然的に改良進歩の一途を辿るに至りました。
次いで1682年(康煕一二)工部虞衡司郎中減応選を任命して御器廠を管理させました。
この威応選の管理した窯およびその製器を誠窯と称しました。
城応選の在任が何年間であったか詳かでないが、窯事に多大の功績があったことは疑いのないことのようで、唐英の『風火神伝』に「城公の陶を督するや、神の窯火中に指画呵護するを見る毎に、則ちその器は精なりき」とあることからも知れる。
しかしいかなる点で彼がすぐれていたのか文献が乏しくて詳かでないが、次の記述によって城窯のことはほぼ推測し得るであるでしょう。
すなわち『景徳鎮陶録』に「城応選の造るところの上埴は騏質にして螢薄、諸色兼ね備わる。
蛇皮緑、鰭魚黄、吉翠黄、斑点の四種あるようで、尤も佳なり。
その僥黄、僥紫、涜緑、吹紅、吹青なるものも亦た美なり。
後に迫んで唐窯あるようで、猶おその釉色に倣う」とあります。
右のほか康煕の御器廠に関することは中国文献によってはほとんど知り得ないようです。
ところが康煕末期に饒州府に在住したジェスウイ。
ト教の布教師ペ一ル一ダントルコ一ルの1721年(康煕五一)および1722年(同六一)の二通の書簡が存在し、この頃の景徳鎮窯業に関して多大の光明を我々に投げたことは周知のことであります。
康煕窯の製器は青花・多彩・単色などにわたり千差万別で一々これを述べ難いが、その胎土はよく淘汰され純粋無雑で、その釉は清浄潔白で堆脂や玉のように微かに淡緑色を帯びるのが普通であります。
康煕窯の釉はその温潤なことでは後世の及ばぬところで、明代のものの域に近いものもまれではないようです。
その青花は明代のものに比べれば深味を欠くけれども、洗練された上等品においては清透な青色を呈し、ことにイギリス人の嘆賞を博しました。
あの有名な氷梅の嬉などは今世紀の初めでも一器数万金を呼んです。
しかしこのような上等品は少なくほとんどは多かれ少なかれ暗晦に傾き、いってみれば康煕の青花は陰気でその釉色と相まって寒い感じを与えます。
多彩磁のうち釉裏紅は明代にその伝が絶えたといわれるが、康煕年間にこれを復活することができたといいます。
しかし美しく成功したものは康煕も末期で、それも小器に限られるようであります。
多彩磁のうちで最も著しいものは三彩または素三彩と称されるもので、その地色は緑色・黄色・黒色などであります。
西洋人は三彩をすこぶる珍重し、中でも黒地のものをブラックホ一ソンと呼び大金を惜しまないようです。
五彩すなわち赤絵と呼ばれるものにあっては、雍正・乾隆期(1723-95)のような繊麗巧緻なものは少ないが、その描絵は素朴な手法のうちにかえって典雅な風趣をもつものが多いので、これを康彩といって鑑賞家が非常に愛着を抱いていたものであります。
単色釉に関しては有名な郎窯があります。
そしてその康煕中期以前のものはすぐれ、末期のものはすでに品質が低下しているといいます。
しかしこの説は果たして何を根拠として唱えられるのであるだろうか。
郎廷極がこの地方の総督であった時期が康煕初年であったということによると思われるが、なお研究の余地があるでしょう。
またあの桃花紅・頻果緑などもこの時代の所産として知られます。
康煕窯の款識は楷書の六字款を普通とするが、この他種々の款が極めて多いようです。
1677年(康煕一六)邑令張斉仲の建議により年款を書くことを禁じたが、その後康煕末に至ってまた年款を記すようになりました。
(尾崎洵盛)

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