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鶴田 純久の章 お話

碾茶を入れるのに用いる陶製小壺。茶事における茶入は点茶用の諸器中の眼目となるもので、茶事が盛んになって以来大名物・中興名物などの名で伝統的重宝として広く尊重されてきました。だいたい高さ三センチから一三、四センチ、胴廻り八センチから二七センチまでの小壺。この中に碾茶の濃茶を入れ、口には象牙の挽物で蓋をつくり(古いのは鹿角)、金襴緞子間道その他の織物でつくった仕覆(袋)でこれを包み、家といって紫檀・タガヤサンあるいは塗物で容器をつくりその中に納め、さらに箱に入れて保存します。
【茶入の名称およびその渡来、並びにわが国における製作】茶入はわが国における喫茶作法の発達と共に現われた茶事用の器物で、茶の湯の創始期である東山時代の『君台観左右帳記』に、初めて「抹茶壺事」として十九種の茶入の図がみえます。
その名称を考えますと、当時は抹茶壺と呼びまだ茶人の称呼がなく、安土・桃山時代になって初めて茶入という称呼が現われたようです。元来茶入はすべて唐物で、みな中国から伝来したものでした。しかしこの器物は中国において最初から茶の容器として製作されたのではなく、実は膏薬壺・練薬入または薬味入・調髪用油入などの雑器としてされたものであり、これを転じて貴重な茶具としたのは、わが国の茶人の芸術的鑑識によるものでした。中国における産地については確証はありませんが、定窯または広東窯あるいは吉州窯の製であるとする諸説があります。茶入がわが国に初め渡来した時期はもちろん不分明ですが、伝説によれば、1191年(建久二)栄西禅師が中国宋からの帰国に際し、初めて茶種と共に唐物小柿茶入というものを将来したといわれ、また大名物久我肩衝は、道元禅師が1227年(安貞元)宋からの帰国に際して持ち帰ったとも伝えられます。
これらの伝説を仮に信じるとしても、茶入とは後世の付会であって、それらの器物が茶事のまだ定まらない当時に茶入として将来されたものとは考えることができません。おそらくは薬入または珍奇な小壺ということで持って来られたものであろう。東山時代の茶事興隆の頃からは、茶入が舶来した事情も漸次明らかとなりましたが、当時唐物茶入は驚くべき高価で売買されましたので、中国から堺・長崎・博多などに通航した商人や船頭は、これら中国の雑器を盛んに蒐集してわが国に輸入したとか、また倭寇のあとを受けた当時の冒険的日本商ルソン人は、この最も利得の多い膏薬壺・練薬入を掠奪する目的で呂宋・スマトラや台湾行きのジャンクをしきりに襲撃したなどという説話が多く残っています。この唐物茶入を根元にしてわが国に茶入をつくることが起こったのは、だいたい茶事の興隆期である室町時代末期以降のことであり、瀬戸をその中心としましたので、茶入といえばすぐ瀬戸作であると思われるようになりました。瀬戸の陶祖でまた茶入の元祖といわれる藤四郎景正が、伝説のよう鎌倉期の人では到底ありえないことは明らかです。
【茶入の窯分】茶入は渡来品(唐物)と国産品(和物)に分けられ、和物はさらに茶入の窯分といっ瓶子窯(古瀬戸・春慶)・真中古・金華山・破風窯・後窯・国焼の六つに分類される。この窯分は便宜上茶入の製作された土地・年代・作者などによって分別されたもので、精密にいうとはなはだ不確かなことを免れ難いです。(一)唐物中国宋代から明代にわたってわが国に渡来した茶入で、後世わが国においてつくられた茶入はすべてこの唐物に根元します。なお藤四郎渡宋後の所作を唐物または藤四郎唐物と呼んでいますので、それと区別するためにこの種の真の唐物を特に漢作唐物と称します。
(二)瓶子窯(古瀬戸)元祖藤四郎所製の茶入。
手・厚手・掘出手は渡宋以前の作(これを特古瀬戸ということがある)、唐物(藤四郎唐物)は帰国後中国の原料で製したもの、春慶は藤四郎が晩年に剃髪して春慶と称し唐土に和土を調合して製したものです。なお古瀬戸という語は、二代の真中古、三代および四代の中古物に対する称で、元祖藤四郎作の総名です。その作には厚手・口兀手・根抜・大瀬戸・小瀬戸・名物手・煎餅手・掘出手・肩付・芋子・擂茶・耳付・丸壺・文琳・茄子・・尻膨・内海・大海・手瓶・大春慶朝日春慶・春慶瓢箪・春慶口瓢箪・春慶飛薬・春慶十王口・春慶飯桶などがあります。(三)真中古二代藤四郎の作で、橋姫手・野田手・大瓶手・小川手・思河手・面取手・面取面不取手・芋の子・大覚寺手・柳藤四郎・糸目藤四郎・花藤四郎・祖母懐・杜若手・底面取・上手・?燭手・黄薬手・後黄薬手・胴高・笹耳・半切・飯桶・大海・茄子・貯・大口・水滴などがあります。なお藤四郎春慶に属する県春慶・鶴頭・擂茶・雪下春慶・色春慶・夏山春慶・手春慶・瀬戸春慶も真中古窯の製であるとされます。(四)金華山(中古物)三代藤次郎の作で、後久野手・頸長手・飛鳥川手・玉柏手・滝浪手・生海鼠手・広沢手・盤余野手・真如堂手・天目手・油虫手・追覆手などがあります。(五)破風窯(中古物)四代藤三郎の作で、翁手・市場手・口広手・渋紙手・擂粉木手・爬取手・早乙女手・音羽手・凡手・玉川手・米市手・胴手・胴塚手などがあります。なお後時代春慶に属する正信春慶・堺春慶・木屋春慶・吉野春慶・金気春慶・伊勢手春慶は、一説に破風窯時代とされます。以上真中古・金華山・破風窯を一括して瀬戸本窯(瓶子窯・後窯・国焼に対して)といいます。(六)後窯 利休・織部・遠州にわたる時代の瀬戸または京瀬戸の茶入作者の製を後窯と称します。その作者には、宗伯・正意・正山・源十郎・茶臼屋・万右衛門・竹庵・新兵衛・江存・徳庵・吉兵衛・茂右衛門らがおり、また坊主手・利休・利休市場・織部・鳴海・姉手・八橋・捻貫手・靨手・山道手・下髪手なども後窯に属します。
(七)国焼瀬戸以外の窯で焼かれた茶入で、薩摩・高取・膳所・丹波・唐津・備前・伊賀・信楽・御室・上野・宇治田原・九谷・志戸呂・八代などです。ほかに島物(安南・呂宋・朝鮮)茶入もあります。
【茶入の名物および銘】『瀬戸陶器濫觴』に、「夫茶器名物といひ伝ふるは、足利将軍義政の時、茶道の式法を定められしより以来、世々これをぶ。名物と称するもの茶入・壺・天目・同台・茶入盆・柄杓・水翻蓋置。又墨跡を尊ぶは、珠光法師に始まります。誠に天下の名物にして、又一家一国の宝にあらずと知るべし。又信長秀吉に至りて数寄道いよく盛んにして、利休居士わびの茶道を工夫し、今世に行はる。竹花入、茶碗、釜等名物と称する物あるは此の時よりと知るべし(注、後世これらの器を名物、さらにのちには大名物という)。ここに徳川三代将軍の御時、小堀遠江守政一、数寄道に長じ、猶茶器をも選出し、各是に名じ、又中古及国焼に至るまで、それぐ是を名春慶飛手頸長広沢手渋紙手D慶大覚寺手油虫手橋姫手口広手丸底手春慶杜若手真中古黄音羽手づけ置きしを世に遠州名物(注、または中興名物)と呼び、又本歌と号す。これよりして古来の名物をば大名物と唱ふるなり、是等は一家の重宝にして天下の宝といふ物にあらず。又其の頃、政一の門人等なほ遺漏ある物を選定したる品どもを、世に同手名物といふ、是なり」とあります。すなわち東山時代並びに信長・秀吉二公の世に価を定められたのを大名物と称します。みな漢作唐物およ古瀬戸(藤四郎唐物)です。その後小堀遠州が、藤四郎以下国焼に至るまですぐれたのを選んで名を付けたものを中興名物という(「名物」の項参照。なお名物茶入で現存のものはほとんど『大正名器鑑』に載せてある)。次に茶入の銘とは、茶入の形状・所在・由来・景色などの要因から命銘された茶人の名称で、その最初は茄子・文琳・尻膨・丸壺・肩衝・大海・芋子・轤口・十王口・花瓶口・柿・瓶子・飯洞・鮟鱇・水滴・手瓶・蔓付・胴高・耳付・鶴首・樽・瓜・餌畚・瓢箪・湯桶・達磨・文茄・半切・車軸・柑子・餓鬼腹太鼓・胴締・擂茶・勢至など、その形状から分類された各種茶入に対し、その形状・所在または入手までの由来に因んで命銘してきましたが、小堀遠州に至って盛んに歌銘というものが行なわれました。歌銘とは、茶入の形状・景色・由来など広い要因に古歌を付会して命銘する方法で、古く東山時代にも二、三その例があります。要するに大名物茶人の銘は比較的単純ですが、小堀遠州が歌銘を用いて以後(中興名物以後)の茶入の銘はたいへん複雑なものになりました。また本歌という語がありますが、これは歌学上の本歌取りに由来するもので、小堀遠州が茶入の命銘に当たってその同一種類中最初に命銘したものをいいます。すなわち遠州がある特定の茶入を見立てて『古今集』の「昨日といひふとくらして飛鳥川流れて早き月日なりけり」という古歌から飛鳥川と命銘したとすれば、飛鳥川はとりもなおさず本歌であって、その後飛鳥川と同一種類の茶入に、別に『後撰集』の「いはねども我が限りなき心をば雲井に遠き人も知らな「む」から雲井と命銘すれば、この雲井はすなわち飛鳥川手銘雲井の茶入と呼ばれるというようなものです。そして茶入の窯分なるものは、多種の茶入をまずその本歌の手の下に類別し、その後その一類はどのような窯に属するかを決定する類別法で、小堀遠州以後に生起するものとみられます。
【茶入の見所】茶入の鑑賞上そなえるべき条件を指して茶入の見所といいます。(一)五ヵ所の見所茶人をその姿体からして口・肩・胴・腰・糸切の五ヵ所に分けて、おのおのその見所を挙げることで、古来名物と称せられる茶入には必ずこの見所があり、その五ヵ所が均等整然としているのを最もいとします。まず口造りは柔かい中に気勢がありかつ整ったものをよいとし、口造りの捻り返しはすらりとしたのを尊重します。この捻り方に丸がえし・平がえし(一文字)・口紐の三種があります。また口より肩までの間すなわち甑と称する個所も見所でああって、捻り返しとよく釣り合う必要があります。肩は茶入の形態美を左右する最重要点であって、茶入の形式により春慶肩・撫肩・丸肩・段肩などの種類があります。胴にもそのつくりによって胴高・胴張などの語があります。なお胴の中間をめぐる胴紐(腰帯)は茶入の姿全体を引き締めますので、これまた重要です。腰は、肩から胴さらに腰と次第に曲線を描いてついに底に及ぶところであり、また釉際の位置するところでもありますから、胴と共にその線条の見所が特に微妙です。糸切とは底面の糸切の個所で、また畳付あるいは盆付とも称し、茶入を置いた時にその底の坐り具合もまた見所の条件です。糸切が左廻りなのは唐物、右廻りなの和物であるとするのは古来の説ですが、一概には決定し難いです。また渦糸切・丸糸切の名もあります。ほかに起こしあるいは板起こしと称してベタ底のものもあり、これは品位が下がるとされています。(二)釉茶入の生命は姿と釉にあります。釉には地釉・上釉・なだれ釉があって、鑑賞上これを景色と称しています。釉についての今泉雄作の説の大要を述べますと、次のようです。「春慶釉は一色の釉で成り、上に水釉が吹き出ています。朝日春慶は東雲に朝日が映えているようにみえます。一般にいう瀬戸釉は、大概は茶の地釉で上に黒が掛かり、なだれは黒・黄もあります。黄釉は二代藤四郎よと伝えられます。釉切れとは上釉の下に地釉がわずかに残っているものです。鶉斑とは上釉の黒斑をなして残っているもの。なだれの中で襷なだれとは網目のような景をいいます。名物で例を挙げると雪柳春慶がそれです。釉変わりとは火加減でなだれの色が変わったものをいいます。釉際の中に破風・山道・一文字があります。破風は釉際が破風形になっており、山道とは高低差の曲線をいい、一文字とは高低がなく一直線になっているものをいいます。火変わりとは肩付の角度がカツキとなっているので地釉が変化したもの。片身替りは前後半身ずつ色変わりになったものをいいます。内はげというのは内面に釉の掛かっていないところがあるもの裏釉とは茶入の裏に釉変わりの入ったものをいう」。なお茶入に置形というものがあります。置形とは茶事の際に茶入の景色のある一面、または最も重んずべき個所を見立てて、これを器体の正面として取り扱うことです。なお茶入の窯分および茶入一般について書いてある書物を掲げておきますと、『別所吉兵衛一子相伝書』宝樹庵『瀬戸窯分』一玄庵『茶入の審分』『瀬戸陶器濫觴』『茶器弁玉集』『万宝全書』六・七『茶湯評林』『三冊名物記』『茶入目利之書』『古今名物類聚』『茶家酔古襍』『本朝陶器攷証』『茶入の見方』『高麗茶碗と瀬戸の茶入』。※からもの ※めいぶつ ※いときり

点前に使用するための、濃茶を入れる陶製の容器(小壺)。通常は、象牙製の蓋をし、仕服(しふく)を着せます。薄茶の容器のことは薄茶器、茶器といいます。
京都建仁寺の開山栄西禅師が宋から帰朝した際に、洛西栂尾の明恵上人に茶の種を贈るのに用いた漢柿蔕(あやのかきべた)の茶壺が始まりといわれます。
元々は薬味入・香料入などに使用されていた容器を転用したもの。到来物の茶壺を唐物(からもの)茶入または漢作唐物茶入と称し、肩の張った物を「肩衝(かたつき)」、林檎に似た形の「文琳(ぶんりん)」、茄子に似た形の「茄子(なす)」、文琳と茄子の合の子のような「文茄(ぶんな)」「鶴首(つるくび)」「丸壺(まるつぼ)」「大海(たいかい)」「尻膨(しりぶくら)」などその姿から名付けられ分類されています。
その後、日本でつくられた茶入を和物茶入と称し、瀬戸の 加藤四郎左衛門景正こと、藤四郎を陶祖として瀬戸窯を本窯と称し、四代目の破風窯までを個別に扱い五つに分類されています。
加藤四郎左衛門が瓶子窯で焼いた ものを「古瀬戸」または彼の法号をとり「春慶」と称し、二代が焼いたものを藤四郎窯、真中古(まちゅうこ)といいます。
三代目が焼いたとされる金華山窯、四代 目が焼いたとされる破風窯を中古物と称します。
利休の頃の破風窯以後の瀬戸、美濃、京都などで焼かれたものを後窯(のちがま)と称します。
その他は国焼(くにやき)の名称のもとで、各々その産地を冠して呼び名としています。
茶入 ちゃいれ

ちゃいれ(茶入)

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