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鶴田 純久の章 お話

越中国(富山県)の横萩錦三郎(初め土谷姓)号。天保(1830~44)の頃唐津師として富山藩主前田利保に招かれ現在の富山市寺町に仮寓し、彫刻も巧みで一光の号は藩主から賜わったもの1858年(安政五)埴生焼・竹亭焼の製陶に助力し、1861年(文久元)に辞めて同国坂本村に窯を起こし、一年程で加賀藩主前田斉泰の招きに応じ御用唐津師として河北郡木津(七塚町)の藩窯に従事。しかし間もなく廃窯となり金沢鶯谷で製陶を始めた。のち京都に移住。1882年(明治一五)没、七十五歳。
その子徳松は1850年(嘉永三)に生まれ、幼少の頃から父に陶法を受け、父の没後は一光を襲号した。初め京都で製陶しましたが1879年(明治一二)金沢に来て鶯谷製陶、のち野崎佐吉に窯を譲り、1882、3年(同一五、六)頃越中安居焼の市右衛門窯で陶技を教えた。数年でまた金沢に帰り製陶の傍ら原呉山に楽焼の製法を習った。
1896年(同二九)大洪水のために窯が大破し京都に移った。作品は非常に繊密な彫工が施してあります。1924年(大正一三)没、七十五歳。三男一造もまた一光と号し京都で製陶したといわれています。なお諸書には一光として錦三郎と徳松の業績を混同して説明しています。(『写本日本陶工伝』『九谷陶磁史』『越中製陶史稿』)

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