姓は高原、また竹原に作る。わが国磁器の功労者で、かつてはわが国磁器の祖として挙げられた時代もあるが、その詳伝は未だ明らかではなく伝奇的謎の人物である。佐賀県有田の酒井田家記録、長崎県三川内の今村家書留によると、五郎七は朝鮮人で加藤清正に従って来朝し豊臣家の焼物師となったという。大阪落城ののち筑前国(福岡県)に行き、肥前国椎ノ峰(佐賀県伊万里市南波多町)を経て南川原(西松浦郡西有田町曲川)に来陶技を酒井田柿右衛門に伝えた。のちそこを去って嬉野内野山(藤津郡嬉野町)に至り、さらに有田岩谷川内(西松浦郡有田町)に移って青磁などの良器を焼いた。寛永(1624~44)の頃キリスト教の禁が厳しくなり、かねて五郎七はその嫌疑があったのか逮捕に先立って失踪したが、その前夜青磁釉その他の原料などを谷に投げ捨てて去ったという。五郎七は土佐国(高知県)を経て大阪に帰り天満で病没したと伝える。九州における五郎七ははなはだ奇行に富み、いい伝えに残その奇行や不思議な言動は彼の神秘性をいっそう深めている。元和・寛永年間(1615~144)の約二十年間肥前にいて、創始時代の肥前の各窯の染付磁器には絶えず五郎七が関係していた。しかし彼の遺作として確実なものはなく、た五郎八茶碗の名が伝称されるのみである。あるものに伝えていうには、祥瑞五郎太夫に五郎七・五郎八の二弟子がおり、高原五郎七はすなわち祥瑞の弟子であるという。また五郎八は五郎七の舎弟であるともいい、五郎八は五郎七の転訛で、すなわち同一人であるともいう。この祥瑞の門人説は従来年代のはなはだしい相違によって否定されてきたが、近年の石松太郎説のように祥瑞の年代約百引き下げてみるとどうであろうか。再考の余地がある。五郎七がキリスト教に帰依していたことは今確かめるべくもないが、彼の切支丹嫌疑は嬉野内野山にいたことがわざわいしたものではないかと思われる。嬉野の不動山の谷は天草残党の隠れ家として有名な切支丹の土地で、これの殲滅には鍋島家もたいそう奔命したことが『肥前夜話』に詳しくみられるからである。この地には現在古窯址がある。なお九州大学の医学博士中山平次郎は、五郎七の筑前における事跡を探ってれを1915年(大正四)4月の『考古学雑誌』に発表した。また塩田力蔵の『陶磁工芸の研究』には五郎七のことを詳しく説いている。※ごろはちちゃわん