元屋敷窯跡は、古くから織部の名品を生産した窯として、また美濃窯で最古の連房式登窯として有名で、昭和42年に国の史跡に指定されています。
昭和5年荒川豊蔵氏により、瀬戸黒・黄瀬戸・志野・織部といった美濃桃山陶が、瀬戸ではなく美濃で生産されていたことが発見されますと、美濃窯には乱掘に等しい大発掘ブームが起こります。
そのなかで、この元屋敷窯跡は当時の地主や地域の人の努力により大切に保存されてきました。
元屋敷窯跡からは戦前の多治見工業学校(現多治見工業高等学校)、戦後間もなくの美濃陶祖奉賛会による発掘で大量の織部焼が出土しています。
また昭和33年には名古屋大学考古学研究室により窯体が調査され、焼成室を14室もつ連房式登窯であることが確認されています。
しかし出土した遺物をみますと、連房登窯が導入される前に生産されたと考えられる天目茶碗、皿類、擂り鉢や瀬戸黒、黄瀬戸、志野も多く含まれ、元屋敷窯(連房式登窯)に先行する大窯があるだろうと考えられてきましたが、なかなか遺跡の全体像を把握するには至りませんでした。
そこで平成5年、土岐市教育委員会が範囲確認調査を実施し、大窯2基(元屋敷東1・2号窯)と2号窯の上につくられた作業場所などの意向を確認しました。
岐阜県土岐市泉町久尻の古窯。同地清安寺前の小川の上から丘陵に登っている窯跡がある。俗に筑後守屋敷跡とよばれ、天目釉・黄瀬戸・瀬戸黒・志野焼・織部などを出す。特に織部には優秀なものがある。窯式によって考えると、それまで今の可児郡可児町久々利地方一帯に散在移動していた窯は、すべて山頂または山腹の傾斜面に設けられ地穴式の窯であったが、元屋敷窯になって山麓に降り、また突如として地上式登窯と変化し、初めて織部焼が焼成された。元屋敷窯は筑後守景延が唐津窯式に築いたものであって、織部焼は景延によりこの時代に始まるものと推定され、次第に尾張・美濃一帯に普遍したものらしい。