瓢池園 ひょうちえん

瓢池園
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鶴田 純久の章 お話
瓢池園
瓢池園

明治時代の絵付陶工場。1873年(明治六)オーストリア万国博覧会事務局付属陶磁器製造所が廃止となった際、同所の御用掛であった河原徳立は、諸工の解散を憎んで同年八月深川区東森下町(江東区)に瓢池園陶画工場を設立した。画工に島内真山・小花和一楽曾我徳丸らがおり、その作品は美術的装飾品を主として多く海外に輸出されたが、図柄に清新な趣があって非常に有名となり、世に瓢池園風(東京絵付)と呼ばれる一風の起原となった。以来1876年(同九)のフィラデルフィア博覧会(アメリカ)、1877年の内国勧業博覧会、1878年のパリ博覧会(フランス)、1879年のシドニー博覧会(オーストラリア)、1881年(同一四)の第二回内国勧業博覧会、メルボルン博覧会(オーストラリア)、1885年(同一八)の五品共進会、1890年(同二三)の第三回内国勧業博覧会、1895年(同二八)の第四回内国勧業博覧会など内外の博覧会・共進会で受賞することが多かった。この間市内三ヵ所に工場を移転したが、のちには次第に実用貿易品の製造にも及び、この方面でも常に模範工場とされた。
その輸出部は1899年(同三二)五月名古屋森村組構内に移り、1909年(同四二)からは日本陶器会社に移管して、ここにまったく瓢池園の終わりを告げた。またその美術部は1902年(同三五)一月まで東京にあったが、翌年名古屋に移り、別に工場を設けて初めて石炭窯を築いて「ふくべ焼」と称せられるものをつくった。(『大日本窯業協会雑誌』267)※かわはらのりたつ

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