赤絵町 あかえまち

赤絵町
Picture of 鶴田 純久の章 お話
鶴田 純久の章 お話
赤絵町
赤絵町

肥前有田皿山の上絵付業者の集合地区。
有田では上絵付業者と本焼業者とは分業で、技法の漏れるのを防ぐ方法として寛文年間(1661-73)に赤絵町の一カ所に集合しました。
宝暦年間(1751-64)まで十一戸であったが1770年(明和七)に五戸増して十六戸となり、明治維新までは増減がありませんでした。
当時の赤絵町は袋地で通行路ではなかったようであります。
1779年(安永八)皿山会所から赤絵町十六戸の業者に諮問ののち、秘密漏洩防止策として赤絵業者の相続および使用人の移動などの規定を厳重にし、原料調合法などは主人および相続人以外の取り扱いを禁じ、転居・結婚なども大いに警戒するようになりました。
これまで有田で使用した他国人または他に転居した者によって、陶法が他国に伝わったことか少なくありませんでした。
当時他の陶業地では青花磁器はともかく赤絵付はまだ有田を凌ぐ技術がありませんでしたので。
一層技法の秘密を厳守することになったものであります。
(『有田磁業史』)

前に戻る
Facebook
Twitter
Email