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九鬼文琳

九鬼文琳(くきぶんりん)

中国製 大名物 所蔵:小松輝久 侯爵

名称の由来
九鬼嘉隆が所持していた文琳茶入であるため、この名が付いています。

寸法(1寸≒3.03cmで換算)
高さ:約6.67cm(2寸2分)
胴径:約6.42cm(2寸1分2厘)
口径:約2.88cm(9分5厘)
底径:約2.73cm(9分)
甑(こしき)の高さ:約0.48cm(1分6厘)
肩幅:約0.79cm(2分6厘)
重量:76.5g(20匁4分 ※1匁=3.75g換算)

附属品
・蓋 1枚(無窠:くぼみなし)
・御物袋(茶入を入れる袋):白縮緬、紐は茶色
・仕覆(袋)2つ
広東織留(裏は浅葱色の風通織、紐は萌黄色)
紗綾形に九龍模様の繻子(裏は丹色地の七子織、紐は紫色)
・袋箱:白木の桐製。「正信」「九鬼文琳」の記載あり。
・挽家(ひきや:茶入を収める筒):象牙製
袋:縦縞の金入り繻子(裏は錦、紐は茶色)
・箱:桐の春慶塗り。蓋の表に銀粉で「九鬼」の書き付けあり。
蓋の裏の朱漆の書き付けは以下の通り。
「この碾茶壺(茶入)は九鬼文林(文琳)であり、世の宝である。寛永12年(1635年)秋8月、先大君である大猷院公(徳川家光)が祖父の堀田正盛に下賜された。先君(私の父)は正盛の館に度々遊びに行き、お茶を献上する際に常にこの器を用いた。そのため、これを記して家宝の珍とする。延宝4年(1676年)丙辰の冬、従五位下豊前守紀正職」
・外箱:白木の杉製。「九鬼文琳」と書かれた紙が張ってあります。
・添え巻物:1幅、林道春(羅山)の筆。
(備考:今読みやすいように訓点を施している)
「我が国にある碾茶壺の有名なものの中に文林(文琳)がある。近世、慈照公(足利義政)がお茶の道に専心し、深く書物を読み込み、茶器の品味を定め、器具を集め、時に応じてこれを用いた。なんと盛んなことであったか。その後、商人たちが中国との間を往来し、街で茶具を売り歩き、全国に広まった。ついに茶器の値段は数十金、百金、あるいは千金万金にまで達するようになった。一つの茶壺に百千の財を投じても、平然として怪しまず、安んじて顧みない。茶壺の利用はここに至って極まった。

「九鬼文林(文琳)もまた碾茶の小壺の一つである。これは九鬼大隅守(嘉隆)が献上したものであり、前の大相国(家康)を経て幕府の大君(家光)から、加州太守(堀田正盛)に下賜された。太守が所蔵するものであり、家宝として珍重することを願っている。その形は文林(林檎の一種)に似ている。そのため、その由来と形が似ていることから『九鬼文林』と名付けたのである。
およそ物にこのような名がつくことは多い。剣の『干将』、酒の『杜康』、薬草の『劉寄奴』、菜の『元修』、楽器の『阮咸』などは、みなその由来によって名付けられたものではないか。芙蓉の峰、桃花の馬、蓮葉の盃、菱花の鏡などは、みなその形が似ていることから名付けられたものではないか。そうであれば、『九鬼』と言い『文林』と言うその名前がどうして信じられないことがあろうか。
かつて聞くところによれば、茶壺の名称には、その形が似ているものには草木や品物の名前を仮に呼ぶものがあり、陶土の凸起や凹陥、上下の豊かさや鋭さ、表裏の厚薄などについては、俗語を用いて呼ぶものがあるという。これは茶人が務めて知るところであり、私がどうして付け加えることがあろうか。
そもそも、文林とは林檎(りんご)のことである。聞くところによると、この果実は渤海(中国の海)の辺りに生え、その木が河の中から浮いて流れてきた。文林郎という者がその種を拾って植えたため、これを名とした。あるいは、南の人はこれを榅桲(マルメロ)と呼ぶという。あるいは、唐の高宗の時、紀王李慎が五色の林檎を得て皇帝に献上したところ、皇帝は大いに喜び、李慎に文林郎の位を授けた。そのため世間では林檎を『文林郎の果実』と呼ぶようになったという。その実は美しく美味しい。マルメロは少し大きくて形が醜く、関中周辺にはあるが江南や江北には全くない。これによれば、林檎が文林郎であり、マルメロではない。
林檎は果物の中の逸品である。王羲之の書を読めばその美しさが分かり、梵志の詩を見れば木の瘤が怪しいと覚り、禅家の語録によれば俗世を離れた活法が記され、蘇軾の句を吟じれば風雅の思いが加わる。その品、形、気味などは多くの書物に散在している。
林檎の別名を『来禽(らいきん)』という。なぜ来禽と呼ぶのか。この果実は味が甘く、よく多くの鳥(禽)を木に呼び寄せる(来)。ゆえに林檎、来禽の名がある。嗚呼、この言葉は小さいが、大きなことを喩えることができる。もし国家について言えば、国内が『林』であり、役人や人民が『衆禽』である。君長が撫慰すれば、役人や人民はみなその教化に懐いて帰服する。これもまた来禽の意味ではないか。
そうではあるが、林檎が多くの鳥を呼び寄せることができるのは、ただ一時的な味によるものに過ぎない。それが腐って落ちてしまえば、鳥は去ってしまう。ただ国を治める者が信義をもって自らを治め、仁慈をもって下々に臨めば、人民は心から服従する。国を治め家を斉える術は、慎まないわけにはいかない。
ましてや今、この一つの小壺は、春の盛りの茶の芽を入れ、口には千秋の雪を含み、味には三厄の露を汲む。文林の枝は永遠に繁茂し、伝わって朽ちることがない。どうして庭園の林の中の、花が咲き落ちるのと同じであろうか。無価(値段がつけられないほど貴重)であると言えよう。
もし暇な時に賓客を招き、新しい水を汲んでお茶を点てるならば、胸の煩わしさを洗い流す効果があるだろう。ましてやその恩賜の厚いことを思えば、太守が珍重するのもまた当然ではないか。太守は私に記すことを求めたため、私は固辞することができず、求めに応じることにした。いささか『来禽』の説を借りて、筆端に微意を寓したのみである。
白州刺史に道を借り、漢詩を添える。これもまたその求めに応じたものである。(漢詩は省略)
正保3年(1646年)6月中旬 夕顔街にて 道春(林羅山)筆」

・添え巻物の箱:白木の桐製(「道春九鬼文林之記」と記載)

・添え掛け軸:1幅 江月和尚の筆
「古い文林(林檎)は病を治す実があるが、その名は知られていない。その形が似ていることから一つの壺に文林と名付けた。九鬼が所持していた一つの壺も、これを見て九鬼文林と呼んだ。侍従正盛(堀田正盛)が銘を乞うたので、戯れに一つの偈(漢詩)を作って言う。
少林面壁 幾許の年華 窟裡の活計 且坐喫茶
欠伸子(印)」
表装:中廻しは青地の波花宝尽くし模様の繻子、文字菊模様の繻子
上下:北絹
軸先:象牙

掛け軸の箱:白木の桐製(「九鬼文琳之記 江月和上」と記載)

雑記
九き(九鬼)文琳。拝領品。堀田加賀殿(所持)。
(『玩貨名物記』より)

九鬼文琳。中国製。堀田加賀守(所持)。
(『古名物記』より)

九鬼文琳。大名物。中国製の小壺。堀田加賀守(所持)。
(『古今名物類聚』より)

堀田正盛(出羽守)。慶長13年(1608年)生まれ。寛永12年(1635年)8月、林道春(羅山)の記と僧江月の賛が添えられた九鬼文琳の茶入を将軍から賜る。松本藩から下総佐倉藩に移され、1万石を加増されて合計11万石を領する。慶安4年(1651年)4月20日、大猷院殿(徳川家光)の薨去に伴い殉死した。享年44歳。
(『寛政重修諸家譜』より)

伝来
もとは九鬼大隅守嘉隆の所持であり、嘉隆がこれを将軍・徳川秀忠に献上しました。その後、寛永12年(1635年)8月に将軍・徳川家光がこれを堀田加賀守正盛に下賜し、それ以来堀田家の宝物となっていました。しかし堀田正陳の時代に、事情があって家計が大変窮乏し、この茶入も質入れされてしまいました。その分家である佐倉城主・堀田正亮が、この茶入を拝見したいと申し出たことで初めてその事実を知り、多額の資金を投じて質から請け出しました。「宝器は本来あるべき場所に無ければその意味がない。宗家にあるべきものを分家に置いておくべきではない」と言って、一目見た後、すぐにこれを本家の加賀守に返還したといいます。(『堀田家々史新撰南山志』等の記録による)。
時代は下って明治16年(1883年)5月、子爵・堀田正養氏から小松宮彰仁親王殿下に献上されました。

実見記(実際に見た記録)
大正10年(1921年)5月10日、東京市浅草区橋場町の小松輝久侯爵邸において実際に拝見しました。
口の縁は丸く、捻り返し(反り)はなく、甑(首)の際が少し窪んでいます。胴には沈んだ筋が1本一周しており、裾から下は鼠色の土を見せています。土の表面には指の跡がいくつかあり、底の糸切りは細かく、その中にヒッツキ(窯くっつき)もしくはヘラ目の跡があって、はっきりとは見えません。底の縁は少し円座状(平らな円形)になっています。
全体的に栗色の地に黒飴色の釉薬で景色が現れており、肩の先やその他の部分に釉抜け(釉薬がかかっていない部分)が点々とあります。甑の周りは一面に黒飴釉が掛かっており、胴の紐(筋)の辺りから黒い釉薬が幅広く、段々になって流れ落ち、一箇所は土が見える部分まで流れ掛かっている所があります。手に取ると軽く、作りは「ムックリ(ふっくら)」としており、裾周りの黒い釉薬の景色は言葉では言い表せないほど趣深いものです。
内部は口の縁に釉薬が掛かっており、それより下は粗いロクロ目が回って、底の中央は渦巻き状になっています。裾の辺りに黒い釉薬が飛んだ跡が1箇所あります。形も釉薬の色も両方とも見事で、全く傷や欠点がなく、完全な状態の茶入です。

【原文】

九鬼文琳

唐物 大名物 侯爵 小松輝久氏藏

名稱
九鬼嘉隆の所持せし文琳茶入なるを以て此名あり。

寸法
高 貳寸貳分
胴徑 貳寸壹分貳厘
口徑 九分五厘
底徑 九分
甑高 壹分六厘
肩幅 貳分六厘
重量 貳拾匁四分

附属物
一 蓋 一枚 無窠
一 御物袋 白縮緬 緒つがり茶
一 袋 二つ
廣東織留 裏淺黄風通 緒つがり萌黄
さや形九龍純子 裏丹地七子 緒つがり紫
一 袋箱 桐 白木
正信
一 挽家 象牙
袋 竪縞金入純子 裏にしき 緒つがり茶
一 箱 桐 春慶塗 蓋表書付銀粉
九鬼
蓋裏 朱漆書付如次
碾茶壺者九鬼文林者也世之所寶也寛永十二年秋八月 先大君大猷院公賜祖父正盛 先君數遊正盛之館其獻茶常用此器因記之以爲家寶之珍延寶四年丙辰冬 従五位下豊前守紀正職
一 外箱 杉 白木 書付張紙
一 添卷物 一幅 林道春筆
(備考)今讀み易からん爲め訓點を施せり。
本朝碾茶壺之有名者文林居其一焉。近世慈照源公專嗜茗荈之術。深耽藎諸之典。定其品味。聚其器具。被任用于時也。盛矣哉。爾後行商估客。來往中土。街鬻茶具。以傳布圖國。遂至使茶器之價。數十金百金。及千金萬金。捐百千財。于一茶壺。恬而不怪。安而不顧。茶壺之任用至是極矣。

九鬼文林亦碾茶小壺之一也。是九鬼隅牧之所献。前大相國而幕府大君之所賜。四品拾遺加州太守。而太守之所藏。冀寶藏之家珍也。其形與文林相似也。故取其所出與其所似。以名之曰。九鬼文林焉。凡物有如此者多矣。所謂劍之干將。酒之杜康。草之寄奴。菜之元修。樂器之阮咸。皆非其所出而名之乎。芙蓉之峯。桃花之馬。蓮葉之盃。菱花之鏡。皆非以其所似而名之乎。然則曰九鬼。曰文林。其名之也不信然哉。且聞。碾茶壺之稱也。或其形模之相似者。則有假草木品物之名以呼焉者。或其陶土之凸起者。凹陷者。上下豐鋭者。面背厚薄者。則有用俗語以呼焉者。是茶人之所務知也。余何贅焉。抑、文林菓林檎也。我聞。此菓生渤海間。其樹從河中浮來。有文林郎者。拾得種之。因以爲名。或曰。南人呼之爲榅桲。或曰。唐高宗時。紀王諶得五色林檎似朱柰。以貢帝。大悦。授諶位爲文林郎。故世呼林檎曰文林郎菓。且其實佳美也。榅桲微大而状醜。關輔乃有江南北悉否。據此則林檎是文林郎。非榅桲矣。夫林檎菓中之逸品也。讀羲之之帖。則知襄盛之爲佳。見梵志之詩。則覺樹癭之有怪。浚禪家之井底。則記方外之活法。吟眞觀之作蘇邁之句。則添風雅之思。其品形氣味等。散在子群書。余又何贅焉。林檎一名來禽。何以謂之來禽乎。此菓味甘。能來衆禽於樹。故有林檎來禽之名。檎禽通用而已。嗚呼此言雖小。可以喩大。若就一身而言之。形體者林也。事物者衆禽也。方寸之昭昭靈靈也。事物者皆來嚮而聽其命。與來禽之義并。按亦可也耶。若就國家而言之。方内者林也。僚屬士庶者衆禽也。君長之所撫慰也。僚屬士庶皆懷其化。而來歸之。是亦來禽之義乎。夫理之明明也。千緒萬端。皆莫不歸屬。於此。故推之四海。施及天下。來禽之義莫不在焉。雖然。林檎之能來衆禽者。唯以一時之味而已。當其爛壞凋零也。何得勞咬咬夏憂磔磔唼唼之聲乎。如此則既來者早去。欲來者不來。豈是近悦遠來之政哉。唯國君州牧。信以治已。仁慈以莅下。則人民心服。魯恭馴雉之化。丈人屋上之鳥。可視乎今乎。若不然。則林檎一時之味能來衆禽。之不若也。邦内何治乎。黎庶何懷乎。嗚呼。治國齊家之術。不可不慎也。且今此一小壺。掬曾坑之春盛。顧渚之芽。口含千秋之雪。味挹三厄之露。文林之枝。永永繁茂。傳以到不朽者也。何其園林之中。開落生熟之比也哉。可謂無價矣。若廼春朝之墨花。夏晝之冷簟。秋夕之紅楓。冬夜之爐火。加之退公之暇也。鑓賓之日也。以論交新之水。品以甃玉川之風。腋於是滌煩之效。宜滯之功。豈他求哉。况其恩賜之厚乎。太守之珍翫不亦宜乎。太守徴記於余。余不克堅拒。因書以塞其所請。聊假來禽之説。而寓筆端之微意而已。
假道於白州刺史添以五言排律六韻。亦是依其請云。
茶寮不惹埃 爐底撥麟灰 陶鑄文林菓 屑霏瑞草魁
眇中蒼壁影 掌上綠瓷盃 漱石分涇渭 吞雲納蕩台
水甘知萬苦 釜沸轟千雷 汲月灌花處 主賓共快哉
正保三年六月中浣
夕顔街 道春 筆

一 添卷物箱 桐 白木
道春九鬼文林之記

一 添掛物 一幅 江月和尚筆
古文林即有治病子實不知其名仍號文林以所其形相似一壺又名文林矣。九鬼所持之一壺以之目之九鬼文林。侍從正盛乞銘焉。戲賦一偈云。
少林面壁 幾許年華 窟裡活計 且坐喫茶
欠伸子 (印)(印)
表裝 中青地波花寶盡純子 文字菊模様純子
上下 北絹 軸象牙

掛物箱 桐 白木
九鬼文琳之記 江月和上

雜記
九き文琳 御拜領 堀田加賀殿。
(玩貨名物記)

九鬼文琳 唐物 堀田加賀守。
(古名物記)

九鬼文琳 大名物 唐物小壺 堀田加賀守。
(古今名物類聚)

堀田正盛 出羽守 慶長十三年生る。寛永十二年八月林道春の記、僧江月の讃添ひたる九鬼文琳の茶入を賜ふ。松本より下總佐倉に移され、一万石を加へ、すべて十一万石を領す。慶安四年四月二十日、大猷院殿薨御により、殉死す、年四十四。
(寛政重修諸家譜)

傳來
元九鬼大隅守嘉隆の所持にして嘉隆之を將軍秀忠に献ず。既にして寛永十二年八月將軍家光之を堀田加賀守正盛に賜ひ、爾來堀田家の寶物たりしが、堀田正陳の時代には、故ありて家政大に窮乏し此茶入も既に質入れしてありしを、其分家佐倉城主堀田正亮、之が一覽を乞ふに及びて、初て此事を知り、乃ち巨金を投じて之を受出し、寶器は在るべき所にあらざれば其效なしとて、直に之を本家に返付せりとなり。(中略)降て明治十六年五月子爵堀田正養氏より小松宮彰仁親王殿下に献せり。
※欄外書き込み:さればそのかひなし宗家にあるべきものを末家におくべきにあらずとて、一覽してのち、使して加賀守にかへし給ひしとぞ。(堀田家々史新撰南山志)

實見記
大正十年五月十日、東京市浅草區橋場町小松輝久侯邸に於て實見す。
口縁丸く、捻り返しなく、甑際少しく窪み、胴に沈筋一線繞り、裾以下鼠色土を見せ、土中に指形數々あり、糸切細かく、中にヒッツキ若くは箆筋ありて鮮明を缺き、底縁少しく圓座状を成せり。總體栗色地に黒飴釉にて景色現はれ、肩先其他に釉ヌケ點々あり、甑廻り黒飴一面に掛り、胴紐の邊より黒釉幅廣く、段々になだれ、一ヶ所土中までなだれ掛りたる處あり、手取軽く、作行ムックリとして、裾廻り黒釉景色面白き事言はん方なし。内部口縁釉掛り、以下轆轤荒く繞り、底中央渦状を成す、裾の邊に黒釉飛び一ヶ所あり、形状釉色兩ながら美事に、名壁微瑕なくして、完全なる茶入なり。

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