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玉堂肩衝

玉堂肩衝(ぎょくどう かたつき)

中国製(漢作) 大名物 侯爵 徳川圀順(とくがわ くにゆき)氏 所蔵

名称の由来
この茶入はもともと大内義隆の所蔵でしたが、天文20年(1551年)の陶晴賢の乱の際、当時山口の龍福寺に住んでいた玉堂和尚がこれを携えて九州の大友家に避難し、後に京都に上ってこれを売却したことから「玉堂肩衝」と呼ばれるようになりました。玉堂は大徳寺の第92代住職で宗條(そうじょう)といい、永禄4年(1561年)1月17日、82歳で亡くなりました。

寸法
高さ:約8.8cm(2寸9分)
胴径:約7.9cm(2寸6分)
口径:約3.9cm(1寸3分)
底径:約5.1cm(1寸7分)
甑高(口の立ち上がり):約1.1cm(3分5厘)
肩幅:約1.5cm(5分)
重量:約142.5g(38匁)

附属物
蓋:1枚、象牙製
御物袋:白縮緬(ちりめん)
挽家(ひきや):黒塗り、内側も黒
「玉堂」の銀粉書き付け(筆者は不明)
袋:有栖川錦、裏地は縞模様の純子(どんす)、緒はつがり茶
箱:桐の白木箱
「玉堂」の楷書・墨書き付け(筆者は不明)

雑記
玉堂肩衝:京都の立売(現在の京都市中京区付近)の針屋宗和が所持している。この壺は形も口も現代の好みに合っており、面白い壺である。(『群書類従本茶器名物集』より)
玉堂肩衝:京都の針屋宗和にある。この壺の口も現代の好みに向いている壺である。(『山上宗二之記』より)
玉堂:宗和が所持。高さ2寸9分、横2寸6分、胴回り8寸2分、底1寸7分、口1寸4分、口の立ち上がり3分半、膨らみ1寸6分、釉薬は一色である(茶入の図あり)。(『万宝全書』より)
玉堂肩衝:京都にあり、針屋紹珍が所持。(『天正名物記』および『東山御物内別帳』より)
玉堂:村田珠光が所持し、後に万代屋宗安にあった。松平安芸守(浅野長晟)が持つこの壺には、ヘラ目が4つ、面に1つあり、上下に押し込みとヘラ目があり、その内に釉薬のなだれ(垂れ)がある。(『古名物記』より)

玉堂肩衝について、宗和の記録には「肩衝四条」とあり、彼は京都の四条に住んでいました。古い書物には「玉堂肩衝は宗和のところにある」とされ、また「京都立売の針屋」とも言われています。神谷宗湛の書には天正15年(1587年)正月29日の朝の茶会にあったとされ、山上宗二の書にも「京都立売の針屋宗和」と記されています。(『利休百会解』より)
玉堂和尚が中国(明)に渡り、帰国する際に茶入を懐に入れて持ち帰り、世に伝えました。現在の玉堂肩衝がこれであり、このような経緯が唐物(中国製)である証拠だと昔の人は語っています。(『茶器弁玉集』より)
玉堂は玉堂和尚の所持品です。戦乱の時代にこのような立派な茶入を持っていれば人に奪われるだろうと考え、打ち割って袋に入れて持ち歩いていた茶入です。後に世の中が平和になってから継ぎ合わせたといいます。唐物です。この蓋は面白い一対のもので、右の蓋は上の部分であり、対になって「陰陽の蓋」と呼ばれました。玉堂の蓋は「陰」です。後世の作り話かもしれませんが、よくできた説です。(『茶事譜器集』より)
玉堂という名物茶入の蓋は千利休の好みです。ただし平らで、橋(つまみ)の頭が窪んでおり、橋の脇に筋があります。(『茶譜』より)
二代目の玉堂和尚と一緒に中国へ渡り、藤四郎が焼いた茶入で、玉堂という名物です。松平安芸守殿(浅野家)にあります。(『名物茶入目利之書』より)
茶入が高価になったのは近頃のことです。私が少年だった頃は、世間で名物といえば「玉堂」という茶入と、千利休の「円座肩衝」くらいのものでした。これもいくらという値段があるわけではなく、比類のない名物のように言われていました。(江村専斎著『老人雑話』より)
ぎょくとう(玉堂):唐物肩衝。松平安芸殿の所持。(『玩貨名物記』より)
玉堂:唐物肩衝の大名物。松平安芸守の所持。(『古今名物類聚』より)
玉堂:中国製です。新田、勢高、不動、柳村といった名物茶入と同時代のものです。(松平不昧著『瀬戸陶器濫觴』より)
(天正19年8月)29日の夜半、大内義隆卿は法泉寺(※正しくは龍福寺の誤り)を落ち延びました。龍福寺の玉堂和尚は、敵が寺の中に乱入し、修行僧まで皆殺しにして寺を焼き払い、乱暴狼藉の限りを尽くしている間に、紫の立派な法衣を脱ぎ捨てて破れ衣を着て、割れた鉢に黒い食べ物を入れました。そしてその底に、義隆卿から賜った肩衝を割って隠し入れ、その食べ物を食べながら脱出しました。人々は本物の乞食だと思い、見知る者もいない間に密かに京都へ上り、その肩衝をつなぎ合わせて数万貫という大金で売却しました。これ以降、この肩衝を「玉堂」と名付け、人々は和尚を欲深い「欲道和尚」と呼びました。その肩衝は今の世まで伝わり、古い名物茶器の第一となっています。(『陰徳太平記 義隆卿法泉寺落の事』より)
昔、天文20年の乱の時、玉堂和尚(周防山口の龍福寺、大内義隆が建立した寺の住職)は、本寺の重宝である肩衝の茶壺を持って逃れようとしました。しかし、そのままでは皆が知る名物なので賊に奪われることを恐れ、打ち砕いて破れた袈裟に包み、頭に乗せて逃げ出しました。後につぎ合わせて売ったので、世間の人は玉堂和尚ではなく欲道(よくどう)和尚だと嘲笑ったということですが、このつぎ合わせた物が「玉堂肩衝」として天下の名物となりました。(『山口名勝旧跡図誌』より)
玉堂の茶入は元々大内氏の所持品でした。しかし陶晴賢の反乱の時、玉堂和尚はたまたま周防の山口にいたため、この茶入を頭に乗せて逃げました。大友家は大徳寺のパトロン(檀那)であり、大内家とも縁があったため、玉堂和尚は豊後の大友家へ逃れました。その後、針屋宗春が購入し、そこから広島の浅野家へ渡りました。広島の玉堂は、大徳寺の玉堂和尚が持っていたので「玉堂」と呼ばれます。玉堂和尚は高桐院の住職・玉甫の時代の人です。玉甫は古渓派で、古渓派の寺は今の大徳寺では高桐院や玉林庵などにあたります。(黒川道祐著『遠碧軒』より)
玉堂:水戸徳川家(水府公)の所持品。高さ3寸、胴2寸6分、口1寸8分半、底1寸7分、口から肩衝まで4分。東山御物(足利将軍家旧蔵)であり、織田家、豊臣家を経て浅野弾正(長晟)が拝領しました。徳川家康(神君)への遺物として献上され、一度返されましたが再度献上され、その後水戸徳川家に付属されました。現在、古い地袋は浅野家(芸州家)にあります。(『諸家名器集』より)
天正5年(1577年)11月19日朝、京都の針屋宗和の茶会。
客は津田宗及、宗納、後に曲庵が参加。炉に浄張りの釜を鎖で吊るし、手桶床に茄子の絵を掛けました(ただし手水間は巻かれていました)。天目台、茶立て、金の合子を使用。お茶の後、玉堂肩衝を四方盆に乗せて持ち出しました。袋は淀んほ(織物の種類?)の金襴小紋で、緒はつがり、浅黄色。肩衝を床の間に宗及が上げ、中央に置きました。この肩衝は、形は肩や裾がないようにまっすぐ立ち上がった壺です。大きさは大型。土は白っぽく、釉薬は黒色、上掛けの釉薬も黒です。なだれ(釉薬の垂れ)が正面にあり、壺の左側にも群がった釉薬があって目につきます。なだれの先に少し色のついた釉薬があり、後ろの爪の跡のような部分にも少しあります。全体的に黒色ばかりです。釉薬は硬く見え、梨地のような所もあります。口は狭く、捻り返しがありません。縁が立ったような口です。肩は広く、口の際のろくろ目はありません。腰の覆いもなく、底はへげ底(削り取ったような底)。広さは畳の目が三つ半より少し広く、四つまではいきません。釉薬は良いところで止まっており、少し上へ汲み上げられたような形です。(『津田宗及茶湯日記』より)
天正15年(1587年)正月29日朝、上京の立売・針屋宗和の茶会。
客は宗及老人、神谷宗湛。平三畳の茶室、床の框(かまち)は4寸の瑠璃縁。裏の釜を自在鉤で吊るしました。床の間に肩衝を袋に入れて四方盆に据え、掛け軸の脇(床の中央寄り)に置きました。肩衝は土が赤みがあり、黒っぽいです。釉薬の抜けが3、4分ほど下まであり、なだれが一つあります。露先(垂れの先端)は白黄色になっています。釉薬の内になだれが二つあり、この間に指の形のような釉薬の抜けがあります。また後ろに親指ほどの釉薬の抜けがあります。下掛けの釉薬は薄黒く、少し赤みがあり、細い銀のようなものがあります。上掛けの釉薬は黒く飴色です。口の付け根の筋の上に二つ筋があり、二つとも釉薬に隠れており、中の筋がそば立って高く見えます。底は土が見えるへげ底です。(『宗湛日記』より)
天正15年10月1日の北野大茶湯への出品。
針屋紹珍の所持品として、月山筆の茄子の絵、肩衝円座、肩衝玉堂が出品されました。(北野神社所蔵『北野大茶会図』より)
秀吉公が小田原征伐の陣を敷いた時、千利休も茶筅をつけた七節の柄杓を指物(旗指物)として挿し、馬上で供をしたといいます。石垣山の陣にも茶室(数寄屋)を造らせ、橋立の壺や玉堂の茶入などを使って、家康公に利休が茶を点ててもてなし、また織田信雄、細川忠興、蒲生氏郷、上杉景勝、羽柴下総守、勝雅楽、前波半入なども加わって茶を賜ったといいます。(『茶事秘録』および『茶湯古事談』より)
その後、陣中に茶屋を設え、橋立の壺や玉堂の茶入を飾り、主客は駿河殿(徳川家康)、相伴は細川幽斎、由巳、法橋利休、居士、お取持ちは前波半入でした。お茶の後、16、17歳から20歳までの美しい若い侍女に酒を注がせ、金銀の扇を開いて拍子をとり、「ざんざの松の声の、ごけしな、ごけしな」とウグイスの鳴き声のように謡い、身分の低い者たちも上流の真似をして、「このような陣所で生涯を送りたいものだ」と、心の底から楽しまない者はいませんでした。(『真書太閤記』より)
慶長2年(1597年)3月23日朝、伏見にて。
浅野弾正(長政)殿の茶会。客は宗湛、鵜新右。四畳半、四尺の床、四寸の瑠璃縁。大釜。掛け軸の脇に肩衝を袋に入れて四方盆に据える等々。手水の間(休憩時間)に肩衝を道籠の脇に置く等々。肩衝は「玉堂」です。正面になだれが三つあり、露先(垂れの先端)は釉薬が白っぽくなっています。全体の釉薬は黒っぽく、上に梨地のように飴色の釉薬が吹き出ており、後ろに釉薬の抜けがあります。土は黒く青みを帯びており、少し白っぽいです。釉薬の抜けの土は5分ほど見えています。底はへげ底です。肩が張っています。袋は萌黄色の純子の小紋で、緒はつがりで紫色です。(『宗湛日記』より)
慶長18年(1613年)10月8日、浅野幸長の遺物として、玉堂肩衝の茶入を東照宮(徳川家康)へ献上しました。(『浅野家譜』より)
浅野長晟(ながあきら。但馬守、実は長政の次男)は天正14年(1586年)に若狭の小浜で生まれました。慶長18年に兄の幸長が跡継ぎなく亡くなったため、その遺領を継ぎました。元和2年(1616年)3月18日、母の喪に服している時に精進落としをするようにとの命があり、鶴を賜りました。その後、家康の病気の際に駿府へ伺候し、玉堂の茶入を下賜されました。これは長晟の家の宝器であり、以前に献上したものでした。寛永9年(1632年)9月3日に47歳で亡くなりました。正室は家康の娘である振姫。法名は正法院。(『寛政重修諸家譜』より)
浅野光晟(みつあきら。安芸守、隠居して紀伊守。母は家康の娘・振姫)は元和3年(1617年)に和歌山で生まれました。寛永9年(1632年)11月1日、家督相続の御礼言上の際、父・長晟の遺物である正宗の脇差と玉堂の茶入を将軍に献上しました。2日、領地のうち5万石を異母兄の長治に分けました。この時、先日献上した玉堂の茶入を将軍から下賜されました。寛文12年(1672年)4月18日に隠居し、5月18日に名刀・正宗の短刀と玉堂の茶入を将軍に献上しました。元禄6年(1693年)4月23日に広島で亡くなりました。享年77。(『寛政重修諸家譜』より)
元和2年(1616年)4月5日、酒井雅楽頭忠正も家康の病床にて酸漿(ほおずき)の茶入を賜りました。浅野但馬守長晟にも玉堂の茶入が下賜されました。これは以前に父の浅野弾正少弼長政が献上したものだといいます。(『徳川実紀』より)
寛文12年(1672年)5月18日、松平安芸守から名刀・正宗の小脇差(代5千貫)と、玉堂の御茶入が献上されました。(『帝大史料本 諸家遺物得物献上記』より)
玉堂肩衝。安芸太守(浅野家)が所持し、献上して将軍家(公方様)の御物となりました。紀伊守様(浅野光晟が隠居した後の呼び名)の時代に幕府へ上がりました。その後のことは浅野家では承知していません。御物袋は紫色で、佐々木徳全の細工でしたが、袋は焼失しました。献上の際には「こむら肩衝」の古い袋である古い純子を掛け、さらに木綿の広東袋を二つ重ねて掛けました。この二つの袋はどちらも藤重が縫ったものだといいます。(『閉事庵の雪間草茶道惑解』より)
玉堂。安芸太守(浅野家)から将軍家へ献上され、御物となりました。御袋は紫色で徳全作でしたが、元の袋は焼失しました。献上の際、野村肩衝の古い袋を掛けました。古い純子と木綿の広東の二つとも、藤重の細工です。(戸田露吟の『雪間草』より)

掛け物:印月江
茶入:大隅肩衝
花入:大そろり(花は牡丹が一輪一葉)
茶碗:利休井戸
(替えの道具)
茶入:玉堂
茶碗:割高台
右の茶会は、黒書院の西湖の間にて尾張殿へお料理を進上した時の記録です。老中の酒井雅楽頭が挨拶した後、表の御園で花を愛で、お点前をなされたとのことです。(『徳川家康茶会之記』より)
元禄13年(1700年)9月25日、将軍(徳川綱吉)が水戸宰相(水戸徳川家)の屋敷へ御成りになり、巳の上刻(午前10時頃)にお還りになりました。
将軍家(公方様)から水戸宰相様へ下賜されたもの:
真の御太刀(代金10枚)、白銀2千枚
時服100領、縮緬100巻
繻珍(しゅちん)50巻
御盃の時に下賜されたもの:
御腰物(長光作、代千貫)、御脇指(吉光作、代金300枚)
内密に下賜されたもの:
茶入 玉堂
(戸田茂睡著『御当代記』より)
(備考)戸田茂睡は寛永6年(1629年)に駿府城三の丸で生まれ、駿河大納言(徳川忠長)の付き人となりました。寛永9年に忠長の罪に連座して大関土佐守に預けられ、翌年一族とともに下野国の黒羽に移されました。後に許されて江戸に帰り、岡崎藩主の本多忠国に仕え、本郷森川の邸宅に住みました。後に隠居して浅草金龍寺の近くに住みました。梨本、隠家などの号があり、歌人として知られます。宝永3年(1706年)4月14日、78歳で没しました。
嘉永3年(1850年)3月、水戸中納言の茶事
掛け物:大燈国師の墨蹟(一休、沢庵の添え状付き)
花入:竹の吹貫切(啐啄斎作、銘は北辰)
茶入:唐物、銘「玉堂」
 袋:縞広東、盆:唐物盆
茶碗:紀州焼、黒釉、敷物尼崎天目台に乗せて
(『木全宗儀氏本茶事記』より)
「弾正壺(全体が呂宋焼、重さ1200銭)。この壺は最初誰が所蔵していたか不明だが、底に『貞和三』の文字と花押が刻まれており、誰が作ったかも分からない。慶長年間に天下で茶の湯が盛んになり、豊臣秀吉(大閤)がこの壺を特に愛して深く秘蔵した。当時、浅野弾正(長政)に軍功があったため、その褒美としてこれを与えた。弾正はこれを受け取って茶を貯蔵したところ、年月を経ても香味は変わらなかった。そこでこれを神君(徳川家康)に献上した。家康もこれを愛玩し、弾正が献上したため銘を「弾正壺」とした。後に玉堂茶入と共に(水戸家の祖である)威公(徳川頼房)に賜った。それ以降、重宝として伝えられているので、決して傷つけてはならない。
天保8年(1837年)夏
徳川斉昭 記(花押)」
(『烈公手書 弾正壺記』より)
(備考)前述の水戸烈公(徳川斉昭)の手書きの「弾正壺記」には、玉堂茶入は水戸藩祖の威公(頼房)が家康から弾正壺と同時に拝領したように記されていますが、他の記録と照らし合わせると、玉堂の拝領は元禄頃(綱吉の時代)のことと思われます。ここに疑問を残し、後世の研究を待ちます。
伝来
もともと大内義隆が所持しており、彼が建立した山口の龍福寺に寄附されました。天文20年(1551年)8月29日、陶晴賢が山口に乱入すると、大内義隆は法泉寺へ逃げ、龍福寺も焼かれたため、同寺の住職であった玉堂和尚がこの茶入を携えて逃げ出し、一時的に九州の大友家に避難しました(この時、この茶入を打ち割ったと後世に言われるのは伝説の誤りです)。その後、玉堂和尚は京都へ上り、立売の豪商である針屋宗和に売り渡したため、世間の人は「玉堂(立派な堂)ではなく慾堂(欲深い堂)だ」と言ったそうです。そして天正5年(1577年)と天正15年(1587年)の針屋宗和の茶会でこの茶入が使用されたことは、津田宗及の茶湯日記や神谷宗湛の日記に詳しく書かれています。それから間もなく豊臣秀吉の手に渡ったものと思われ、天正18年(1590年)の小田原征伐の際、石垣山の陣中にこの茶入を飾り、武将たちを労ったことが『真書太閤記』などに見えます。その後、秀吉はこれを浅野弾正(長政)に与え、慶長2年(1597年)3月23日、長政が茶会でこの茶入を使用したことが『宗湛日記』に出ています。そして後年、長政はこれを江戸幕府(徳川家)に献上しました。慶長18年(1613年)に長政の子・幸長が跡継ぎなく亡くなり、弟の長晟が遺領を継ぎましたが、元和2年(1616年)4月5日、長晟が駿府に徳川家康の病気見舞いに行った際、家康から再びこれを与えられました。寛永9年(1632年)11月1日、長晟の子・光晟が跡を継ぐにあたり、再びこれを将軍家光に献上しましたが、その翌日に家光から改めてこの茶入を下賜されました。寛文12年(1672年)5月18日、光晟は再びこれを将軍家綱に献上し、その後しばらくは幕府(柳営)に留まり、延宝6年(1678年)の将軍の茶会でこの茶入が使用された記録があります。元禄13年(1700年)9月25日、将軍徳川綱吉が水戸家の邸宅を訪れた際、内密にこれを水戸宰相の徳川綱條に下賜しました。

実見記(実際に拝見した記録)
大正7年(1918年)9月2日、東京市本所区小梅町の徳川圀順侯爵の邸宅において実見しました。
口の作りは、ひねり返しがあり、両削ぎで蛤の刃のような形をしています。「新田(名物茶入)」と比べると甑(口の立ち上がり)がやや低く、肩が強く張っており、裾以下のすぼまり方が少なく、底が非常に広いです。全体的に黒飴色の釉薬の中に、やや濃厚な同色の釉薬のなだれ(垂れ)が景色を作っており、肩の周りに少し碧瑠璃色を帯びた所があります。裾から下は鉄分を含んだ土色で、その土の上に盆付きの際まで流れ掛かっている釉薬の溜まりの中にも、少し碧瑠璃色が見えます。底は板起し(板から糸で切り離した跡)で、擦り減っています。内部は口の縁に釉薬が掛かり、轆轤(ろくろ)の目が緩やかに回り、底の中央は輪状になっています。全体的に地の色が濃厚であるため、景色が鮮やかに冴えているわけではありませんが、落ち着いていて威厳があり、雄大な雰囲気を持つ茶入です。

【原文】

玉堂肩衝

漢作 大名物 侯爵 德川圀順氏藏

名稱
此茶入元大内義隆の所藏たり、天文二十年陶晴賢の亂に際し、當時山口龍福寺に住せし玉堂和尚之を携へて九州の大友家に避難し、後京に上りて之を賣却せしに由り、玉堂肩衝と稱せらる。玉堂は大德寺第九十二代にして宗條といひ、永祿四年正月十七日寂す、年八十二。

寸法
高  貳寸九分
胴徑 貳寸六分
口徑 壹寸參分
底徑 壹寸七分
甑高 參分五厘
肩幅 五分
重量 參拾八匁

附属物
一蓋  一枚 象
一御物袋 白縮緬
一挽家 黑塗 内黒
玉堂 銀粉書付 筆者未詳
袋 有栖川 裹縞純子
  緒つがり茶
一箱 桐 白木
玉堂 楷書 墨書付 筆者未詳

雜記
玉堂カタツキ 京の立賣針屋宗和ニ有此壺モ形口、當世行ル面白ガル壺なり。
(群書類從本茶器名物集)

玉堂肩衝 京針屋宗和にあり、此壺も口當世へむきたる壺なり。
(山上宗二之記)

玉堂 宗和所持。竪二寸九分、横二寸六分、廻り八寸二分、底一寸七分、口一寸四分、同竪三分半、膨一寸六分、藥一色なり(茶入圖あり)。
(万寶全書)

玉堂肩衝 京都の分、針屋紹珍所持。
(天正名物記及び東山御物内別帳)

玉堂 珠光所持、万代屋宗安に有之、松平安藝守此壺へラメ四つ、面に一つ、上下おしこみ、ヘラメあり、其内なだれ有之。
(古名物記)

玉堂肩衝 宗和一本に肩衝四條とあり、京四條に住す。舊書に玉堂肩衝、宗和にあり、又、京立賣ハリヤと云ふ、宗湛の書、天正亥正月廿九日朝會あり、宗二の書にも京立賣ハリヤ宗和とあり。
(利休百會解)

玉堂和尚渡唐して歸朝の砌、茶入を懷中して世に傳へたり、今の玉堂肩衝と云是なり、かやうの儀唐物の證據たりと古き人の物語なり。
(茶器辨玉集)

玉堂 玉堂和尚の所持なり、亂世の時かやうの能き茶入持居候へば、人に取られ申すべしとて、打破りて袋に入れて持て被居候茶入なり、後に世治りて繼立申候由、唐物なり、此蓋面白き對物なり、右の蓋は(蓋の圖略す)蓋の上なり、面白の蓋と對にて、陰陽の蓋とて、玉堂の蓋は陰なり、後の説にて可有之候へ共、先づ能き説也。
(茶事譜器集)

玉堂といふ名物茶入の蓋(圖略す)、利休好、但し平、橋の頭くぼし、橋の脇筋あり。
(茶譜)

二代目玉堂和尚と入唐して、藤四郎茶入燒く、玉堂と云て名物なり、松平安藝守殿に有之。
(名物茶入目利之書)

茶入高直になりたるも近來のことなり、老人少年の頃は、世上おしなべて名物といふは、玉堂といふ茶入と、利体が圓座肩衝と斗りなり、これも何程と云ふことなく、無類の名物の様に云ふなり。
(江村專齋著老人雜話)

ぎょくたう 唐物肩衝 松平安藝殿。
(玩貨名物記)

玉堂 唐物肩衝大名物 松平安藝守。
(古今名物類聚)

玉堂 漢なり、新田、勢高、不動、柳村と同時代なり。
(松平不味著瀬戸陶器濫觴)

二十九日(天正十九年八月)の夜半に、義隆卿は法泉寺を落ち給ふ(中略、龍福寺の誤)、の玉堂和尚は敵寺中へ亂入り、喝食小僧迄も悉く打殺し、伽藍を焼き、亂妨狼藉に及びける間、頓て紫の法衣を脱捨て、破れ衣を着し、破鉢に黒食を入れ、其底に義隆卿より賜りたる肩衝を打破りて入れ彼の食を喰ひし出でられたれば、人誠の乞食非人と思ひ、見知る者も無かりし程に、忍びて都へ上り、彼の肩衝を繼合せ、數萬貫に沽却せられけり。是よりして肩衝をば玉堂と號し、和尚をば欲道とぞ人の申しける。彼の肩衝、今の世迄傳はりて、古器名物の第一たり。
(陰徳太平記義隆卿法泉寺落の事)

昔天文廿年の亂に、玉堂和尚(周防山口龍福寺大内義隆建立住持玉堂和尚なり)なほ本寺の重寶なる肩衝の茶壺を持て遁れんとずるも、其儘にては人のよく知る物なれば、賊徒に奪はれんことをおそれ、打碎きてやれたる袈裟に包み、頭にかけて遁れいで、接續合して賣りければ、世人玉堂和尚にはあらず欲道和尚にこそと嘲りし由なるが、このつぎ合せたる物玉堂肩衝とて天下の名物となれり。
(山口名勝舊蹟圖誌)

玉堂の茶入は元大内殿の所持なり、然るを陶が一亂に玉堂和尚、折節周防の山口に居られた故に、此茶入を頭にかけて退かる、さて大友が大德寺の旦那にて其上に大友は大内へよしある故に、豐後の大友へ玉堂退く、其後に針屋宗春手前へ買ふて、それより廣島家へゆくなり、廣島の玉堂は、大德寺の玉堂和尚持ゆるに玉堂といふ。玉堂は高桐院の住玉甫の時代なり、玉甫は古溪派なり、古溪派の寺は、今は大德寺にては高桐院又玉林庵などなり。
(黒川道祐著遠碧軒)

玉堂 水府公御物 高三寸、胴二寸六分、口一寸八分半、底一寸七分、口より肩衝迄四分、東山御物、織田豐臣家より淺野彈正拜領、神君へ爲遺物進獻、一度又被遣候所、又々獻上之其後水府公へ御附屬あり、今古地袋藝州家に有之(茶入圖略す)。
(諸家名器集)

天正五年十一月十九日朝 京のはりや宗和會
人數 宗及 宗納 後に曲庵被參候
爐に淨張、くさりに、後に手桶床に茄子の繪かけて、但手水間に卷かれて、天目臺、茶立、金の合子。
茶過て、玉堂かたつき四方盆にすへ持出で、袋、淀んほの金襴小紋、緒つがり、淺黄、肩衝床へ及(宗)上げ申候、中道に置。
右かたつき、形り肩裾もなき樣に直にたちたる壺也、比は大形也、土白け心あり、藥黒色也、上藥も黒也、ナダレ面にあり、壺の左の方にむらたちたる藥あり、目にかゝり候、ナダレの先に少色藥あり、うしろのつめかたにも少あり、惣別黒色なる斗りなり、藥堅目に見へ候、梨目なる所もあり、口せばく候、捻返しなく候、臣たつちたる口なり、肩廣く候、口の際のろくろもなし、腰の覆もなし、底はへげ底の廣さ疊の目三ツ半より少し廣し、四ツ迄はなし、藥よき比にとまり候、少し上へくみたるかた也。
(津田宗及茶湯日記)

天正十五年正月二十九日朝、上京たちうり針屋宗和御會
宗及老 宗湛
平三疊 床かまち四寸るりふち 裏の釜自在つり
床に肩衝袋に入、四方盆に据ゑて軸わきに但中わき(床の)置、肩衝は土赤めにして黒めなり、藥はづれ三四分ほど下までなだれ一つ有、露さきは白黄なるやうにあり、藥の内になだれ二つあり、此間にゆび形の如く藥はづれ有、又うしろに大指ほどに藥懸はづれあり、下藥薄黒めに少赤めにして細なる銀のやうなるものありて、上藥黒く飴色也、口付の筋上に二つ有、二つとも藥にかくれ、中の筋ぞそばぞ高にみゆる、底へげ土也。
(宗湛日記)

天正十五年十月朔日北野大茶湯出品
針屋紹珍所持 一茄子繪月山筆 一肩衝圓座 一肩衝玉堂
(北野神社所藏北野大茶會圖)

秀吉公小田原御陣の時利休も茶筌つけたる七節の柄杓の指物さし、馬上にて御供申せしと、石垣山の御陣にも數寄屋を圍はせられ、橋立の御壺、玉堂の御茶入などにて、家康公由巳利休に御茶給り、又信雄公、忠興氏郷、景勝、羽柴下總守、勝雅樂、前波半入など加へられ御茶給ひしと。
(茶事秘録及び茶湯古事談)

其後御陣中に御茶屋をしつらへ橋立の御壺、玉堂の御茶入を飾り、御客は駿河殿、御相伴は細川玄旨、由巳、法橋利休、居士、御取持には前波半入。御茶の後、十六七より二十を限り、若女房の美しきに酌を取らせ、金銀の扇をひらきて拍手どりざんざの松のこゑの、ごけしな/\と鶯の舌を鳴らして謠ひければ、下々いづれも上を學び、かゝる陣所に生涯を送らばやと、心の底に樂しみをなさぬ者こそなかりけれ。
(眞書太閤記)

慶長二年三月二十三日朝 伏見にて
淺野彈正殿御會 宗湛 鵜新右
四疊半、四尺床、四寸るり、大釜、軸脇に肩衝袋に入れ四方盆にするて云々、手水の間に肩衝を道籠のわきに云々、肩衝は玉堂なり、表になだれ三つ、露さき藥白け候也、惣の藥黒めにして、上に梨地の如く飴色の藥ふき出、後に藥はづれあり、土黑く青めにそと白け、藥はづれ土五分ほどに、底へげ土なり、肩つく也、袋は萌黄の純子小紋なり、緒つがり紫なり。
(宗湛日記)

慶長十八年十月八日幸長の爲遺物玉堂肩衝の茶入を東照宮へ獻上
(淺野家譜)

淺野長晟(ナガアキラ。但馬守、實は長政が二男)天正十四年若狹小濱に生る、慶長十八年兄幸松歿して嗣なく、其遺領を襲ふ、元和二年三月十八日、母の喪に籠る時精進を解くべき旨仰ありて鶴を賜ふ、後東照宮不豫につき、駿府に伺候し、玉堂の茶入をたまふ、これ長晟が家の寶器にして、先に奉りし所なり、寛永九年九月三日歿す、年四十七、室は東照宮の御娘振姫君。法名正法院。
(寛政重修諸家譜)

淺野光晟(ミツアキラ。安藝守、致仕紀伊守。母は東照宮の娘)元和三年和歌山に生る、寛永九年十一月朔日襲封を謝する時、父長晟の遺物正宗の脇差、玉堂の茶入を獻ず、二日領知の内五萬石を庶兄長治に頒つ、是時先に獻せし玉堂の茶入を拜賜す、寛文十二年四月十八日致仕し、五月十八日得物正宗の短刀及び玉堂の茶入を奉る、元祿六年四月廿三日廣島に歿す、年七十七。
(寛政重修諸家譜)

元和二年四月五日、酒井雅樂頭忠正も御病床にて酸漿の茶入を賜ふ。淺野但馬守長晟にも玉堂の茶入を賜ふ、これは先に父彈正少弼長政が獻せし所とぞ。
(徳川御實紀)

寛文十二年五月十八日、松平安藝守得物正宗小脇差代五千貫、玉堂御茶入。
(帝大史料本諸家遺物得物獻上記)

玉堂肩衝 安藝太守御所持、獻上、公方樣御物となる、紀伊守樣(淺野光晟致仕後の稱)時代上る、其後御家知不申候。御物袋紫、徳全細工、袋燒失、獻上の節こむら肩衝、古袋古純子掛る、并に袋二つ、木綿かんとう袋掛る二つ袋とも、藤重縫ふよし。
(閉事庵の雪間草茶道惑解)

玉堂 安藝太守より公方家へ獻上御物となる。御袋紫徳全作、本袋燒失、獻上の節、野村肩衝の古袋を掛る、古純子木綿廣東二つとも、藤重細工なり。
(戸田露吟の雪間草)

延寶六戊午二月二十六日
一御掛物 印月江
一御茶入 大隅肩衝
一御花入 大そろり 御花牡丹一輪一葉
一御茶碗 利休井戸
 替の御道具
一茶入 玉堂
一御茶碗 割高臺
右は御黒書院西湖の間にて尾張殿へ御料理被進之。酒井雅樂頭御老中御挨拶以後於表御園御花御手前被爲遊云々。
(德川家康茶會之記)

元祿十三庚辰九月二十五日水戸宰相殿へ御成、巳の上刻還御申之中刻
公方樣より宰相樣へ
一眞御太刀 代金十枚 一白銀二千枚
一時服百領     一縮緬百卷
一繻珍五十卷
御盃之時
一御腰物 代千貫長光 一御脇指 代金三百枚吉光
御内證にて
一茶入玉堂
(戸田茂睡著御當代記)

(備考)戸田茂睡は寛永六年駿府城内三の丸に生る、駿河大納言忠長の附人となり、寛永九年忠長の罪に坐し大關土佐守に預けられ、翌年一族と共に下野黒羽の里に移り、後赦されて江戸に歸り、岡崎藩主本多忠國侯に仕へ、本郷森川の邸に居り、後致仕して淺草金龍寺の邊に住す。梨本、隱家等の號あり、歌人として知らる。寶永三年四月十四日歿す、年七十八。

嘉永三庚戌年三月水戸中納言茶事
一掛物 大燈國師墨蹟 一休澤庵添書
一花入 竹吹貫切 啐啄作 銘北辰
一茶入 唐物 銘玉堂
   袋 しまかんとう 盆 唐物
一茶碗 紀州作 黒藥敷の物尼ヶ崎天目臺に乗せて
(木全宗儀氏本茶事記)

彈正壺總呂宋重一千二百錢 此壺者其初不知何人所藏焉底有款識刻貞和三及花押、而亦不知何人所造也、慶長年間天下茶事盛行、豐臣大閤殊愛此壺深藏之、時淺野彈正長政有軍功以充其賞、彈正受而儲茶經年香味不變、於是獻之 神君、神君亦愛玩之以彈正所獻之故銘之日彈正壺既而與玉堂茶入同賜之威公爾後傳以爲重器愼勿毀傷焉。
天保八年丁酉夏日
齊昭識(花押)
(烈公手書彈正壺記)

(備考)前掲水戸烈公手書彈正壺記に、玉堂茶入は藩祖威公が家康より同壺と同時に拜領せし者の如く記されたれども、他書の記録と照合するに、玉堂の拜領は元祿頃の事なるが如し、爰に疑を存して後考を俟つ。

傳來
元大内義隆所持にして、之を其建立に係る山口龍福寺に寄附せしが、天文二十年八月二十九日、陶晴賢山口に亂入するや、義隆法泉寺に遁れ去り、龍福寺も亦燒かれしかば、當寺の住持たりし玉堂和尚乃ち此茶入を携へて遁れ出で、一旦九州大友家に避難せり(當時此茶入を打壞したり。後にいふは傳説の誤なり)。後、玉堂、京都に上り、立賣の富豪針屋宗和に賣渡せしかば、世の人、玉堂に非ず慾堂なりと云へりとぞ。而して天正五年及十五年針屋宗和の茶會に此茶入を使用せること、津田宗及茶湯日記及宗湛日記に審かなり。夫れより程なく豐臣秀吉のに入りたる者と覺しく、天正十八年小田原の役、石垣山陣中に此茶入を飾りて、將士を犒ひたる事、眞書太閤記等に見ゆ。其後秀吉之を淺野彈正長政に與へ、慶長二年三月廿三日、長政其茶會に此茶入を使用せること、宗湛日記に出づ。而して後年長政之を幕府に獻せり。慶長十八年長政の子幸長歿して嗣なく、弟長晟其遺領を襲ひしが、元和二年四月五日、長晟、駿府に德川家康の病氣を見舞ひたる時、家康より更に之を賜與せられ、寛永九年十一月朔日、長晟の子光晟封を襲ふに當り、復た之を將軍家光に獻せしが、其翌日家光より改めて此茶入を賜はり、寛文十二年五月十八日、光晟更に之を將軍家綱に獻上し、其後暫く柳營に止まり、延寶六年將軍の茶會に此茶入を使用せられたる記録あり。元祿十三年九月二十五日、將軍綱吉、水戸邸に臨むや、御内證にて之を水戸宰相綱條に賜はりぬ。

實見記
大正七年九月二日、東京市本所區小梅町、德川圀順侯邸に於て實見す。
口作、拈り返し、兩そぎ、蛤刄状を成し、新田に比すれば甑稍低く、肩強く張り、裾以下窄り方少なく、底極めて廣し。總體黑飴釉の中に稍濃厚なる共色釉のナダレ、置形を成し、肩廻りに少し碧瑠璃色を帶びたる所あり、裾以下鐵氣色の土にして、其土を盆附際まで流れ掛りたる釉溜中にも亦少しく碧瑠璃色を見る。底は板起しにして磨り滅しあり。内部、口縁釉掛り、轆轤緩く繞り、底中央輪状を成す。大體地色濃厚なるが爲め、景色冴え冴えしからざれども、沈着にして威嚴あり、氣宇雄大なる茶入なり。

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