


漢作 大名物
侯爵 徳川圀順氏藏
名稱
此茶入元大内義隆の所藏たり、天文二十年陶晴賢の亂に際し、常時山口龍福寺に住せし玉堂和尚之を携へて九州の大友家に避難し、後京に上りて之を賣却ㄝしに由り、玉堂肩衝と稱ㄝらる。玉堂は大德寺第九十二代にして宗峰といひ、永祿四年正月十七日寂す、八十二。
寸法
高 貳寸九分
胴徑 貳寸六分
胴廻 八寸參分
口徑 壹寸參分
底徑 壹寸七分
瓴高 參分五厘
肩幅 五分
重量 参拾八匁
附屬物
一蓋 一枚
一御物袋 白縮緬
一挽家 黑塗 內黑
玉堂 銀粉書付 筆者未詳
袋 有柄川 裏縞純子 緒つがり茶
一箱 桐 白木
玉堂 楷書 黑書付 筆者未詳
雑記
玉堂カタッキ 京の立賣針屋宗和二有、此壺も形、口、當世行ル面白ガル壺なり。 (群書類従本茶器名物集)
玉堂肩衝 京針屋宗和にあり、此壺も口、當世へむきたる壺なり。 (山上宗二之記)
玉堂 宗和所持、竪二寸九分、横二寸六分、廻り入寸二分、底一寸七分、口一寸四分、同竪三分半、膨一寸六分、藥一色なり(茶入圖あり)。 (万寶全書)
玉堂肩衝 京都の分、針屋紹珍所持。 (天正名物配及び東山御物内別帳)
玉堂 珠光所持、万代屋宗安に有之、松平安藝守、此壺ヘラメ四つ面に一つ、上下おしこみ、ヘラメあり、其内なだれ有之。 (古名物記)
宗和、一本に肩衝四條とあり京四條に任す。舊書に玉堂肩衝宗和にあり、又京立賣ハリヤと云ふ、宗湛の書、天正亥正月廿九日朝會あり、宗二の書にも京立賣ハリヤ宗和とあり。 (利休百會解)
玉堂和尚渡唐して歸朝の砌、茶入を懐中して世に傅へたり、今の玉堂肩衝と云是なり、かやうの儀、唐物の證據たりと、古き人の物語なり。(茶器辨玉集)
玉堂 玉堂和尚の所持なり、亂世の時かやうの能き茶入持居候へば、人に取られ申すべしとて、打破りて袋に入れて待て被居候茶入なり、後に世治りて繼立申候由、唐物なり、此蓋面白と對物なり、右の蓋は(蓋の圖略す)蓋の上なり、面白の蓋と對にて、陰陽の蓋とて、玉堂の蓋は陰なり、後の説にて可有之候へ共、先づ能き説也。 (茶事諸器集)
玉堂といふ名物茶入の蓋(圖略す)利休好、但し平椿の頭くぼし、椿の脇筋あり。 (茶譜)
二代目、玉堂和尚ご入唐して藤四郎茶入焼く、玉堂と云て名物なり、松平安藝守殿に有之。 (名物茶入目利之書)
茶入高直になりたるも近來のことなり老人少年の頃は世上おしなへて名物さいふは玉堂といふ茶入と利休が圜座肩衝となり、これも何程と云ふさなく、無類の名物の様に云ふなり。 (江村専齋著老人雜話)
ぎょくたう 唐物肩衝 松平安藝殿。 (玩貨名物記)
玉常 唐物肩衝大名物 松平安藝守。 (古今名物類楽)
玉党 漢なり新田勢高不動村と同時代なぁ
(松平不昧瀬戸陶器觴)
玉堂 松平安藝守、今水戸公火に逢ふ、ヘラメあり(茶入圖略す)。 (焼風龜龍)
二十九日(天文廿年八月)の夜半に義隆卿は法泉寺を落ち給ふ(中略)隆福寺(龍福寺の誤)の玉堂和尚は敵寺中へ入り、喝食小僧迄も悉く打殺し、伽藍を焼き、亂妨狐藉に及びける間、頓て紫の法衣を脱捨て、破れ衣を着し、破鉢に黒食を入れ共底に義隆卿より賜りたる肩衝を打破りて入れ、彼の食を喰ひ出でられたれば、人誠の 乞食非人と思ひ、見知る者も無かりし程に、忍びて都へ上り、彼の肩衝を合せ數萬貫に沾却せられけり。是よりして肩衝をば玉堂と號し和尚をば欲道とぞ人の申しける。彼の肩衝、今の世迄傅はりて古器名物の第一たり。
(陰徳太平記義隆卿法泉寺落の事)
昔天文廿年の亂に、玉堂和尚なほ本寺(周防山口龍福寺大内義隆建立住持玉堂和尚)の重賓なる肩衝の茶壺を持て遁れんとするも、其儘にては人のよく知る物なれば、賊徒に奪はれんことをおそれ、打砕きてやれたる袈裟に包み、頭にかけて遁れいで接續合して賣りければ、世人玉堂和向にはあらず、欲道和尚にこそと嘲りし由なるが、このつぎ合せたる物、玉堂肩衝とて、天下の名物となれり。 (山口名勝舊路圖誌)
玉堂の茶入は元大内殿の所有なり、然るを陶が一亂に玉堂和尚、折節周防の山口に居られた故に此茶入を頭にかけて退かる。さて大友が大徳寺の旦那にて其上に大友は大内へよしみある故に、豊後の大友へ玉堂退く。其後 に針屋宗春手前、買ふて、それより廣島家へゆくなり廣島の玉堂は大徳寺の玉堂和尚所持ゆゑに玉堂といふ。玉堂は高桐院の住玉甫の時代なり、玉甫は古溪派なり、古溪派の寺は今は大徳寺にては高桐院又玉庵などなあり。 (黑川道祐著遠碧軒)
玉堂 水府公御物 高三寸、胴二寸六分、口一寸八分半、底一寸七分、口より肩衝迄四分、東山御物、織田豊臣家より淺野彈正拜領、神君へ爲遺物進獻、一度又被遣候所、又々獻上之、共後水府公へ御附属あり今古地袋藝州家に有之(茶入圖卯略す) (諸家名器集)
天正五年十一月十九日朝 京のはりや宗和會
人數 宗及 宗納 後に曲庵被參候
嘘に淨張くさりに、後に手桶床に茄子の繪かけて、但手水間に巻かれて天目臺茶立金の合子。
茶過て玉堂かたつき四方盆にすへ持出て袋佐んほの金網小紋緒つがり淺黄肩衝床へ及(宗及)上げ申候、中通に置。
右かたつき、形り肩裾もなき様に直にたちたる壺也、比は大形也、土白け心あり、藥黒色也上薬も黒也、ナダレ面にあり、壺の左の方にむらたちたる藥あり、目にかゝり候、ナダレの先に少色藥あり、うしろのつめかたにも少あり、惣別黑色なる斗りなり、藥堅目に見へ候、梨日なる所もあり、口せばく候、捻返しなく候、佐つたちたる口なり肩廣く候、口の際のろくろもなし、腰の覆もなし、底はへげ底の廣さ疊の目三ッ半より少し廣し、四ッ迄はなし藥よき比にとまり候、少し上へくゝみたるかた也。 (津田宗及茶湯日記)
天正十五年正月二十九日朝、上京たちうり針屋宗和御會
宗及老 宗湛
平三疊 床 杉かまち 四寸ゐろり 眞のふち 釜自在つり
床に肩衝袋に入、四方盆に据ゑて軸わきに、但 中より少わきに(中略)、肩衝は土赤めにして 黒めなり、薬はづれ三四分ほど下までなだれ一つ有、露さきは白黄なるやうにあり、薬の内になだれ二つあり、此間にゆび形の如く薬はづれ有、又うしろに大指ほどに藥懸はづれあり、下樂薄黒めに少赤めにして細なる銀のやうなるものありて、上藥黒く飴色也、口付の筋上に二つ有、二つとも薬にかくれ、中の筋そとぼそ高にみゆる、底へげ土也。 (宗湛日記)
天正十五年十月朔日北野大茶湯出品
針屋紹珍所持 一茄子繪月山筆 一肩衝圜座 一肩衝玉堂 (北野神社所藏北野大茶會圖)
秀吉公小田原御陣の時、利休も茶筌つけたる七節の柄鶴の指物さし、馬上にて御供申せしと、石垣山の御陣にも數寄屋を圖はせられ、橋立の御壺玉堂の御茶人などにて、家康公、由巳、利休に御茶給り、又信雄公、忠興、氏鄉、景勝、羽柴下など加へられ、御茶給ひしと。 (茶事秘録及び茶湯古事談)
其後御陣中に御茶屋をしつらへ、橋立の御壺、玉堂の御茶入を飾り、御客は駿河殿 徳川家康 御相伴は細川玄旨由巳法橋、利休居士、御取持には前波半入、御茶の後十六七より二十を限り若女房の美しきに酌を取らせ、金銀の扇をひらきて拍手さり、ざゝんざの松のこゑのごけしなくなくと鶯の舌を鳴らして謡ひければ、下々いづれも上を學びかゝる陣所に生涯を送らばやと、心の底に楽しみをなさら者こそなかりけり。 (眞書太閣記)
慶長二年三月二十三日朝 伏見にて
淺野彈正殿御會 宗湛 鵜新右
四疊半、四尺床、四寸ゐろり、大釜、軸脇に肩衝袋に入れ四方盆にすゑて云々。手水の間に肩衝を道籠のわきに云々。肩衝は玉堂なり、表になだれ三つ、露さき藥白け候也、惣の藥黑めにして、 に梨地の如く飴色の藥ふき出、後に藥はづれあり、黒く青めにそと白け、藥はづれ土五分ほどに底へげ土なり、肩つく也、袋は萌黄の純子小紋なり、緒つがり紫なり。 (宗湛日記)
慶長十八年十月八日幸長の爲遺物玉堂肩衝の茶人を東照宮へ獻上 (浅野家譜)
淺野長晟 但馬守實は長政が二男 天正十四年若狭小濱に生る、慶長十八年兄幸松歿して嗣なく、其遺領を襲ふ、元和二年三月十八日、母の喪に籠る時、精進を解くべき旨仰ありて鶴を賜ふ、後東照宮不豫につき、駿府に何候し、玉堂の茶入をたまふ、これ長晟が家い寶器にして、先に奉りし所なり、寛永九年九月三日歿す、年四十七、室は東照宮の御娘振姫君法名正法院。 (寛政重修諸家譜)
淺野光晟 安藝守致仕紀伊守母は東照宮の娘 元和三年和歌山に生る、寛永九年十一月朔日襲封を謝する時、父(長晟)の遺物正宗の脇差、玉堂の茶入を獻ず、二日領知の内五黄石を庶兄長治に頒つ、是時先に獻ぜし玉堂の茶入を拜賜す、寬文十二年四月十八日致仕し、五月十八日得物正宗の短刀及玉堂の茶入を奉る、元祿六年四月廿三日廣島に歿す、年七十七。 (寛政重修諸家譜)
元和二年四月五日酒井雅樂頭忠正も御病床にて酸漿の茶入を賜ふ。淺野但馬守長晟にも玉堂の茶入を賜ふ、これは先に父彈正少弼長政が獻ぜし所とぞ。 (徳川御寶記)
寬文十二年五月十八日松平安藝守得物正宗小脇差代五千貫、玉常御茶入。 (帝大史料本諸家遺物得物獻上記)
玉堂肩衝 安藝太守御所持上、公方様御物となる。紀伊守様(淺野光晟致仕後の稱)時代上る、其後御家知不申候。御物袋、紫、徳全細工、袋燒失、黻上の節このむら肩衝古袋古純子掛る、幷に袋ニッ、一木綿かんとう袋掛る。二つ袋とも、藤重縫ふよし。 (閑事庵の雪間草茶道惑解)
玉堂 安藝太守より公方家へ献上、御物となる。御袋紫徳全作、本袋焼失、獻上の節、野村肩衝の古袋を掛る、古純子、木綿、廣東二つとも、藤重細工なり。 (戸田露吟の雪間草)
延寶六戊午 二月二十六日
一御掛物 印月江
一御茶入 大隅肩街
一御花入 大そろり 御花杜若一輪一葉
一御茶碗 利休井戸
替の御道具
一茶入 玉堂
一御茶碗 割高臺
右は御黑書院西湖の間にて尾張殿へ御料理被進之。酒井雅樂頭御老中御挨拶以後於表御圍御花御手前被爲遊云々。 (徳川家康茶之記)
元祿十三庚辰九月二十五日、水戸宰相殿へ御成、巳の上刻還御申之中刻、公方様より宰相様へ
一眞御太刀 代金十枚國宗 一白銀二千枚
一時服百領 一縮緬百卷
一繻診五十卷
御盃之時
一御腰物 代千貫長光
一御脇指 代金三百枚吉光
御内證にて
一茶入玉堂肩衝 (戸田茂睡著御當代犯)
(備考)戸田茂睡は寛永六年駿府城内三の丸に生る、駿河大納言忠長の附人となり寛永九年忠長の罪に坐し大關土佐守に預けられ、翌年一族と共に下野黒羽の里に移り、後赦されて江戸に帰り、岡崎藩主本多忠國候に仕へ本郷森川の邸に居り、後致仕して淺草金龍寺の邊に住す梨本隠家等の號あり歌人として知らる。寛永三年四月十四日歿す。年七十八。
嘉永三 庚戌 年三月水戶中納言茶事
一掛物 大燈國師墨蹟 一休澤庵添書
一花入 竹吹貫切 昨啄作 銘北辰
一茶入 唐物 錦玉堂
袋 しまかんこう 盆
一茶碗 紀州作 黑樂 数の物尻ヶ﨑天目臺に乗せて
(木全宗儀氏本茶事記)
彈正壺 焼呂宋重一千二百銭 此壺者其初不知何人所藏焉底有貞和三及花押、而不知何人所造也、慶長年間天下茶事盛行、豊臣大閤殊愛此壺深藏之、時淺野彈正長政有軍功以充其賞彈正受而儲茶經年香味不變於是獻之 神君神君亦愛玩之以彈正所獻之故銘之曰彈正壺既而與玉堂茶入同賜之、威公爾後傳以爲重器慎勿毀傷焉。
天保八年丁西夏日 齊昭識(花押)(烈公手書弾正壺記)
(備考)前揭水戸烈公手書彈正壺記に玉堂茶入は藩祖威公が家康より同壺と同時に拜領せし者の如く記されたれども、他書の記録と照合するに、玉堂の拜領は元祿頃の事なるが如し、後に疑を存して後考を俟つ。
傳來
元大内義隆所持にして之を共建立に係る山口龍福寺に寄附しが天文二十年八月二十九日陶晴賢山口に亂入するや、義隆法泉寺に通れ去り龍福寺も焼かれしかば、當寺の住持たりし玉堂和尚乃ち此茶入を携へて通れ出で、一旦九州大友家に避難せり(當時此茶入を打壊したりといふは傳説の誤なり)。後玉堂京都に上り、立賣の富豪針屋宗和に賣渡せしかば、世の人玉堂に非ず慾堂なりと云へりとぞ。而して天正五年及十五年針屋宗和の茶會に此茶入を使用せること、津田宗及茶湯日記及宗湛日記に審かなり、夫れより程なく豊臣秀吉の手に入りたる者と覺しく天正十八年小田原の役、石垣山陣中に此茶入を飾りて將士を犒ひたる事眞書大閤記等に見ゆ、其後秀吉之を淺野彈正長政に興へ慶長二年三月廿三日長政其茶會に此茶人を使用せること、宗湛日記に出づ而して後年長政之を幕府に獻ぜり、慶長十八年長政の子幸長歿して嗣なく、弟長晟其遺領を襲ひしが、元和二年四月五日長晟駿府に徳川家康の病氣を見舞ひたる時家康より更に之を賜輿せられ、寛永九年十一月朔日、長晟の子光晟封を襲ふに當り、復た之を將軍家光に獻せしが其翌日家光より改めて此茶入を賜はり寛文十二年五月十八日光晟更に之を將軍家綱に獻上し、其後暫哲く柳營に止まり延寶六年将軍の茶會に此茶入を使用せられたる記録あり。元祿十三年九月二十日将軍綱吉水戸邸に臨むや御内證にて之を水戸宰相綱條に賜はりぬ。
實見記
大正七年九月二日東京市本所區小梅町徳川圀順侯邸に於て實見す。
口作粘り返し兩そぎ 狀を成し、新田に比すれば甑稍低く肩強く張り裾以下搾り方少なく底極めて廣し。總體黒飴釉の中に濃厚なる共色釉のナダレ置形を成し、肩廻りに少しく碧瑠璃色を帯びたる所あり、裾以下鐵氣色の土にて、其上を盆附際まで流れ掛かりたる釉溜中にも亦少しく碧瑠璃色を見る、底は板起しにて磨り減らしあり。内部口縁釉掛り、轆轤緩く繞り、底中央輪状を成す、大體地色濃厚なるが爲め、景色冴え冴えしからざれども沈着にして威厳あり、氣宇雄大なる茶入なり。